「主にある交わりの喜び」(7月22日週報巻頭言 牧師 藤井秀一)

 教会では「交わり」という言葉をよく使います。「交わり」というと一緒にお茶を飲み語り合うイメージでしょうか?
 
 新約聖書で「交わり」と訳される元のギリシャ語は「コイノニア」です。この「コイノニア」が意味する内容はとても豊かで、実は「交わり」という一つの言葉では現しきれません。
 
 たとえばフィリピの手紙のなかにでてくる「コイノニア」という言葉をたどってみると、かならずしも「交わり」とは訳されません。
 
「あなたがたは、最初の日から今日まで、福音にあずかっている」(1:5)とパウロが語ったこの「福音にあずかっている」と訳される言葉は「コイノニア」です。
 
「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみをともにしてくれました」(4:14)の「苦しみを共にする」も「コイノニア」です。
 
パウロはフィリピ教会に向かって「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」といいます。
 
実際パウロはこの時、福音を伝えたためにローマに捕らえられ牢屋に監禁されていました。
 
でもパウロは自分一人で苦しんでいるのではなく、フィリピの教会の仲間たちも一緒に闘ってくれている、喜びも苦しみも一緒に分かち合う仲間のイメージで「コイノニア」を使っています。
 
この「コイノニア」の使い方を知って、わたしたちの「交わり」に対するイメージは深められたでしょうか?
 
 
 
さてフィリピ教会は伝道熱心な教会でした。その熱心さゆえにお互いのやり方、考え方の違いで対立もありました。
 
ゆえにパウロは「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、「霊」による交わり、それに慈しみや憐みの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにしてわたしの喜びをみたしてください」と願います。
 
まったく違う人々が、心一つになれるのは、一つの「霊」「聖霊」を互いに分かち合う「コイノニア」のゆえです。
 
主イエスはこの「コイノニア」を実現するために、神の身分から徹底的にへりくだられ、僕のようになられ十字架に命をささげられました。
 
この人間の理解を越えた出来事が、聖霊によってこの私を愛する神の愛であったと気付かされ、共に喜び分ちあえる仲間。
 
この宝のような「コイノニア」「交わり」がある現場。それが教会です。
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