「性的少数者と教会」(2018年8月5日 週報巻頭言 牧師 藤井秀一)

今、「LGBT(性的少数者)には生産性がない」というある議員が雑誌に投稿した文書が問題となっています。

ただ、この方の書かれた全文をよく読むと、ご自分はLGBTの友人もいて、差別意識などないといわれ、むしろ「差別」をしてきたのは、キリスト教文化であるということも書かれていました。

さてこの見方に、わたしたちはどう応答すればいいのでしょう。

確かに歴史の教会においては、いわゆる同性愛に対して、厳しい立場を取ってきたことは事実です。今もそのように考えるクリスチャンの方もおられるでしょう。

そのような考え方の根拠として、特にローマの信徒への手紙1章があげられます。

その個所において、使徒パウロは、具体的に同性愛を取り上げ、「自然な関係を自然にもとるものに変え」と否定的に語るからです。

しかしその先をよく読むならば、パウロは同性愛だけを特別視しているわけではなく、むしろその後につづく、「不和、欺き、邪念、陰口・・・」など、わたしたちが気にもしないでしていることを、むしろ重大な罪として扱っていることに気が付かなければならないでしょう。

また、旧約聖書の「十戒」には、姦淫の禁止は語られますが、同性愛については何も語られていません。

なぜなら律法は、神と他者との関係を問題にするからです。同性愛を問題にする以上に、「姦淫」など他者を深く傷つける行為を律法は禁じているわけです。

その意味において、性的少数者を「差別」することこそ、聖書的には罪深い行為として、戒められるべきであるでしょう。

さて主イエスの時代、律法学者の律法解釈によって「罪人」とみなされ、居場所を失っていた人々のところを、主イエスは訪ね歩き神の愛の福音を伝えられました。

教会は、誰かに向かって「罪人」のレッテルをはり、裁きを加える裁判官として存在しているのではなく、

神に愛されていながら神から離れて罪の苦しみのなかにあるすべての人々に、

主イエスがなさったように神の愛と赦しを伝え、神の国へと招くそのためにこそあるはずなのです。

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