「立ち上がらせる主イエスの手として」(2020年5月17日週報巻頭言 牧師 藤井秀一)

今日の礼拝で読まれる個所は、使徒言行録の中で最初に行われたいやしの出来事です。

ペトロとヨハネは祈るために、ユダヤ教の信仰生活の中心である神殿に上って行きます。最初のクリスチャンは、まだユダヤ教と密接にかかわっていて、エルサレムの神殿でよく祈っていました。「美しい」と形容された神殿の門――美しい門――のそばに、生まれつき足の不自由な人が物乞いをしているのを二人は見かけます。当時、からだが不自由なことは何らかの罪の結果だと考えられていました。ゆえに律法はそうした人がささげものをするのを禁じていたのです。彼は神殿に入ることができませんでした。その彼に思いもよらないことが起こります。ペトロとヨハネがやって来て、互いの目と目が交差します。足の不自由な人は施しを乞うために、二人を見つめましたが、ペトロとヨハネは、施しとは違う贈り物を渡すために、彼のことをじっと見つめたのです。ペトロは彼に言います。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」

言葉は、互いに心と心が結び合うことで、伝わっていきます。目と目を合わせ、ちゃんと向き合うことによってしか、伝わらない神の愛と恵みがあるのです。

確かにお金も人を救うことがあります。特にこの経済的な試練の時代にあっては、お金によって救われることが沢山あるでしょう。しかしお金を求めることで、むしろその人がその人らしく生きることができなくされることも起こるのです。物乞いをしていた男性にお金を渡すことは、その生活にこの人をますます依存させることでもあるのです。ペトロとヨハネは言いました「わたしには金や銀はないが、持っているものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」

この力強い宣言を聞き、信じた彼は、立ち上がり歩き出しました。本当の救いとは、神から与えられたいのちが、この人らしく生き生きと生かされていくために、手を取って立ち上がらせてくださる、イエス・キリストの救いなのです。

イエス・キリストを信じるわたしたちも、金銀はなくても、この素晴らしい宝を持っています。人が立ち上がるのを助けておられる、主イエスの手として歩みたいのです。

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