「存在を通して語る」(2017年11月26日週報巻頭言 牧師 藤井秀一)

クリスマスの時期になると、新宿の駅前などでスピーカーを持った人が「悔い改めよ」「神の裁きがある」など、大きな音で流しているのに遭遇することがあります。彼らは、仙台から来ているあるキリスト教系のグループですが、聞くところによると、彼らは一般の教会に対して批判的で、自分たちこそが熱心に伝道をしていると考えているのだそうです。

さて私が「酒田」で開拓伝道をしていたころ、彼らは数か月に一度、ワゴン車でやってきては「悔い改めよ」と大きな音を流しながら、何時間も住宅街をゆっくり走り続けました。彼らが去った後、地元に教会に苦情が来たり、ある時は、私がその車に乗ってやっていたと誤解されたこともありました。彼らが車でやってくるたびに、地道に育ててきた、「地元の方との信頼関係」という小さな花を、踏みつけられる気がしました。

彼らの伝道熱心さを理解しつつも、やはり伝道というものは、ただ録音した言葉を聞かせるだけではないと思うのです。もしそれでよければ、私たち家族は、住み慣れた東京を離れて見知らぬ土地に移り住み、雪国の厳しさや、地方の生活の大変さを、地元の人たちと共に味わう必要もなく、東京という便利な都会に住みつづけて、週末だけ車でやってきては、録音した伝道メッセージを流していればよかったわけです。

さてバプテスト連盟から派遣された宣教師の方々は、住み慣れた場所を離れ、それぞれに日本よりも厳しい生活環境のなかで、現地に生きる人々と、喜びと苦しみを共にしながら主イエスの福音を語り生きています。神の言葉を伝えるためには、どうしても現地の人々と共に生き、共に苦しむ存在が必要なのだと、彼らは信じて出ていったのです。

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