「寄り添うということ」    ローマの信徒への手紙 2章9‐15節   廣島規子姉  2013・11・24

先週私たちは日本バプテスト女性連合が推進する、世界バプテスト祈祷週間を覚える礼拝を捧げました。女性連合作成のDVDを用いて、祈祷週間の成り立ちを学び、これまで大切にされてきた運動の必要性を知り、私たちの捧げる献金が、全世界でどのように用いられるのかを確認しました。礼拝の後に持たれたバザーでは女性グループのバザー委員の日ごろの地道な働きに加え、多くの兄弟姉妹の働きを通してたくさんの売り上げを得ました。バザーの売り上げや袋献金、その他様々な取り組みによって得たお金を、世界祈祷週間献金として捧げ、女性連合に用いていただきます。毎年この取り組みのために働く姉妹方の「捧げる喜び」に接するたび、神さまのご用のために働く本当にすがすがしい気持ちを分けていただきます。

今日は女性連合が世界祈祷週間と並行して推進する「沖縄」を学び、「沖縄命どぅ宝(命こそ宝)の日」を覚えたいと思います。

 

「沖縄(命どぅ宝)の日」は日本バプテスト女性連合が、沖縄地上戦が組織的に終結した日とされる6月23日を、沖縄を覚え平和を祈る日としてこう呼んでいます。

この日を祈念する目的は次のようなものです。

1.沖縄を国外と位置づけ、沖縄のこれまでの苦しみ・悲しみ・痛みに思いが至らなかったことへの悔い改めを忘れない。

2.沖縄の歴史に学び、「二度と戦争を起こさない誓い」を新たにする。

3.沖縄バプテスト連盟女性会・沖縄の教会の女性たちとの交わりを深め、共に福音を担う活動を展開する。

4.沖縄地上戦が組織的に終結したとされる6月23日は死者を悼み非戦を誓う日であることを覚える。

 

そして毎年、6月23日の前後3-4日間に「沖縄学習ツアー」を開催し、遠い『本土』からこの非戦の日を眺めるのではなく、沖縄の人たちと共に現地に居させていただくことを大切にしています。

 

2007年の女性連合総会の席上、沖縄の現状を覚えて祈りを合わせてください。と涙ながらに訴えた原口悦子「沖縄(命どぅ宝)の日」推進委員長の言葉に心をゆすぶられ、私は沖縄学習ツアーに参加させていただくようになりました。

インターネットで検索をかければ知りたいことはなんでも分かるこの時代にあって、あえて自分自身を沖縄の地に置く。沖縄との出会いは驚きと衝撃、そして苦しみを伴うものでした。

 

湿度が高く、焦げるように厳しい日差しと熱風にさらされる沖縄の夏。むせ返るような暑さの中、飲み水さえもろくに無く、母親は年寄り・子どもを抱えながら戦火をくぐり抜け、年端もいかない女学生は血と膿と汚物にまみれて兵士を看護し、さらに危険を冒して飯上げの道を走って食料を調達する。いつか『本土』から助けが来ると信じて、あらゆる困難と闘い続けた3か月の長い地上戦の日々。

学童疎開船・対馬丸が攻撃を受け、幼い無数の命が海に沈みました。

沖縄県は国民学校単位で疎開をすすめます。多数の兵士が沖縄に移駐し大量の食糧が必要になり、足手まといになる民間人を県外へ移動させることは急務だったのです。いっぽう子どもたちは「ヤマトへ行けば汽車にも乗れるし、雪も桜もみることができる」と修学旅行気分ではしゃいでいました。

対馬丸は、1944年8月21日夕方、疎開学童、引率教員、一般疎開者、船員、兵隊など1800名近くを乗せ、同じように疎開者を乗せた他の船計5隻で船団を組んで長崎を目指し出航しました。しかし翌22日夜10時頃鹿児島県の北西を航行中、米潜水艦の魚雷攻撃を受け対馬丸は沈められてしまいます。老朽貨物船・対馬丸は航行速度が遅く、潜水艦の格好の標的でした。

ほとんどの乗船者は船の中に取り残されましたし、海に飛び込んだ人も台風接近に伴う高波にのまれました。乗船者1800名のうち1400名以上が亡くなってしまいました。

救助された人々には「箝口令(かんこうれい)」がしかれ、対馬丸が撃沈された事実を話すことを禁じられました。ですから潜水艦と共に沈んだ人々の遺体は引き上げられることなく、その事実すら戦後しばらくたつまで家族に正しく知らされることはありませんでした。沖縄バプテスト連盟の城間牧師の妹さんも、この対馬丸事件の犠牲となりました。

沖縄戦での米・日・その他の国を合わせた死者数23万8千人の内、12万人が武器も何の力も持たない民衆・大陸から連れて来られた人々であったこと。沖縄は『本土』決戦を避けるため、日本の捨石にされたのです。

 

毎年覚えられている6月23日の慰霊の日。サンフランシスコ講和条約によって日本が沖縄を切り捨てた4月28日の屈辱の日。沖縄が基地のない平和な国を求めて日本への返還を願った5月15日。

テレビの画面越しでは分からない生の沖縄、知ろうとしていなかった沖縄の歴史と出会いました。

そして今もってなお、沖縄の真っ青で広い空に不釣り合いな戦闘機が、爆音をたてなが飛び回る。沖縄は戦争中も今も、いつまでも私たちの身代わりのままです。

 

今日私たちが読んだローマの信徒への手紙2章9節-15節には、

「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛を持って互いに愛し、尊敬を持って互いを優れたものと思いなさい。途中を省略しますが、最後に、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」と書かれてあります。

 

私たちは神さまに倣うものとして造られました。

それ故に、分かっていながら何事もなかったかのように、誰かの犠牲の上に幸せになることは出来ません。泣いている友を見て見ぬふりをすることもできません。

一人一人にできることは極めてささやかなことかもしれません。けれども神さまが私たちを捨て置かれないように、私たちも涙を流す誰かの傍らで、共に涙を流す者とならせていただきたいと願います。

 

毎年学習ツアーでは、先ほど見ていただいた写真にもあるように、沖縄本島南部の戦争跡地を訪ねます。そして保存されているガマの中に入らせていただきます。

沖縄にはまだまだたくさんのガマが残されています。地上戦になり追いつめられた人々は家を離れ、小さな鍾乳洞であるガマの中に女・子ども・お年寄りは身を隠しました。そしてガマの中には大変な傷を負って瀕死の状態にある兵士も運び込まれました。傷にわいた蛆にわめき苦しむ兵士を、女学生は食べることも飲むこともろくにできない状態で、昼も夜も命がなくなっていく人たちの看護に明け暮れる。助けてほしいと懇願する人たちを前に、なすすべのない状況に無力感や絶望感を覚えながらも必死で生きた姿が私の目の前に浮かびます。

いよいよ敗戦が色濃くなった時には、日本軍によって青酸カリや手りゅう弾が配られ、それも無い時には鎌でお互いの首を切りあって死ぬことを強いられました。

ガマの中で死ぬほかなかったたくさんの遺体は、戦後しばらくたってガマの保存のために収集されましたが、長い年月の中朽ち果てた回収しきれない骨のかけらが、無数に土の中に埋まったままです。そのガマの中を見せていただくためには、わたしたちはその土の上を踏ませていただくことになるわけです。

 

この戦跡ツアーには沖縄バプテスト連盟の方々も多く参加されます。それは『本土』から来ている私たちと交わりの時を持つため。そしてこれまで一度も訪れたことのできなかった南部戦跡を、戦後60数年目にしてようやく初めて訪れてみるためです。日本で唯一悲惨な地上戦を経験した沖縄の人たちの傷は深く、自分たちだけでは決してその地を訪れることができないほどのトラウマがありました。

今年、戦後69年目を迎えました。私たちにとってはもうすっかり過去のものとなり、戦争を語り継げる人もどんどんいなくなっている今日ですが、沖縄の人々にとっては、今もその戦争の只中にあることを思い知らされました。

私たちにできることは小さいです。

しかし、戦争の苦難を乗り越え、基地の無い平和な暮らしを願う沖縄の人々に寄り添うこと、祈りを合わせていくことが、神さまが造られた平和な世界を私たちも共に求め続けていくことになるのではないでしょうか。

 

ローマ書12章12節

「希望を持って喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」 神さまが与えてくださった、人を思いやる美しい心を私たちが見失うことの無いよう、いつも神さまの教えに研ぎ澄まされた心で向き合いたいものです。

 

お祈りいたします。

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