「愛には恐れがないとは」(2019年3月3日週報巻頭言 牧師 藤井秀一)

 

昔、こんな話を聞きました。

朝鮮戦争のとき、あるアメリカの兵士が激しい戦地に派遣され、やがて音信が途絶え、両親は息子は死んだと思っていた。

しかしある日、両親のもとに、死んでしまったとあきらめていた息子から電話がきて両親にこう告げる。

「父さん母さん、大変な傷を負ったけれども、やっと元気になったよ」。

両親は「ああ、生きていてくれて嬉しいよ」と喜ぶ。

息子は「ねえ、僕を迎えに来てくれるかな」と頼むと「なにを言うんだ。当然だよ」と親は答えた。

それを聞いた息子は「ちょっとまって。実は僕には友達がいて、大変な負傷をして両足切断したんだ。彼も一緒に連れて行きたいのだけど、いいかな」といった。

「ああ、そりゃ、2-3日ならいいよ」

「2-3日じゃないんだよ」

「じゃあ、2-3週間なら」

「いや、2-3週間じゃなくて・・・・これからずっとなんだよ」。

両親は息子に告げた。「ずっとこれから、というわけにはいかないんじゃないかな。両足がなかったら、それは大変だろう」

この言葉を聞いた息子は「僕を迎えにこなくてもいいよ」といい電話を切った。

実は、その両足のない友人とは、彼のことだったから・・・

だれかと寄り添い、共に生きることが「愛」なら、人が傷つき恐れるのは、その「愛」に条件が付くときです。

「私が願う通りのあなたならよし。そうでなければ、いらない」。

この条件付きの「愛」は、今も身近な人を、そしてこの世界を、傷つけ、恐れさせています。

さてヨハネの手紙は「神は愛」と告げ「神の愛」は主イエスの十字架によって示され、この「愛には恐れがない」と宣言します。

しかしなぜ、十字架の愛には恐れがないと言えるのでしょうか?

このことに関して、ある牧師の断層を紹介します。
(「福音はとどいていますか」P.91)

「十字架は、イエスが人間の救いのためにその罪を負われた身代わりの死と言われます。

しかし、そう言いえるのは、イエスがひとりびとりをこよなく愛して、共に在ろうとされた生き方の延長線上にそれが立っているからです。

でなければ十字架はただの犠牲の死です。

十字架において注目すべきは、その悲惨な死に方ではなくて、十字架を負うに至らざるを得ないイエスの生き方でしょう。

十字架は、罪のための犠牲であるゆえに身代わりであるというよりは、罪への徹底した寄り添いの故に身代わりなのです。

十字架の真意は神の寄り添いです。」

主イエスは決して私たちを見捨ない。共にいる。

だから恐れることはないのです。

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