2023年3月12日主日礼拝ダイジェスト

「ゲッセマネの祈り」       藤井 秀一

共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)には主イエスの「ゲツセマネにおける祈り」が記されています。

「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)

主イエスはユダヤ教の指導者たちによって捕らえられる直前、三人の弟子たちを伴いゲツセマネという場所で祈られました。弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」(マタイ26:38)と助けさえ求めながら。

さてある人は、この主イエスの懇願の言葉に躓きを感じるかもしれません。しかも同じ言葉で何度も「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈る主イエスの姿は、当時のイスラエルの民が期待した、力強い「メシア」「救い主」のイメージとは程遠く、実に弱弱しく憐れな姿として、弟子たちの目にも映ったに違いありません。

それゆえなのでしょうか、主イエスのそばにいた3人の弟子たちは、この憐れな姿で祈るイエスと共に、目を覚ましていることができずに眠ってしまうのです。

その弟子たちが目を覚ましていられなかったことを指して、「心(霊)は燃えても、肉体は弱い」と主イエスは言われました。これは目を覚ましつづける体力のなさの話というよりも、自分たちの期待(「肉」)とは異なる、イエスの振る舞い(「霊」)に対し、ついていけずに、ある意味退屈して眠ってしまった、罪の誘惑に対する弱さのことを言われているのでしょう。

 

エルサレム入場の時も、軍馬ではなくあえて子ロバに乗って入場する主イエスの心を、力強いメシアを期待していた民衆は理解できませんでした。そしてこのゲツセマネの園で苦しみ祈る主イエスの心を、弟子たちは理解できず、退屈で眠ってしまいました。この「神の御心」と「人間の思い」のすれ違いは、どうにかならないのでしょうか?

主イエスは弟子たちに言われました。「誘惑におちいらぬよう、目を覚まして祈っていなさい」。そしてご自身もまたこう必死に祈っておられます。

「わたしの願い通りではなく、御心のままに」と。

 

 

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