2023年4月30日主日礼拝ダイジェスト

週報巻頭言

「またおいでになられます」     藤井 秀一

 キリスト教の信仰において「復活信仰」は、もしそれを失ってしまったなら、信仰生活自体が意味のないものになる(1コリント15章)と使徒パウロが言ったように、欠くことのできない信仰です。しかしそれにくらべるなら、主イエスの「昇天」と「再臨」の信仰は、あまり私たちの信仰生活に、深い関りがあるとは、思われていないふしがあります。

 

さて今日、礼拝で読まれる使徒言行録1章3節~11節は、主イエスが十字架の死から復活し、40日間弟子たちに姿を現し、神の国について教えた後、彼らの目の前で天に昇っていった箇所です。さらに「昇天」したイエスを見つめていた弟子たちに、二人の人(天使)は「ガリラヤの人たち、なぜ天を見あげて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天にいかれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」といいました。

 

ウィリモンという神学者は、使徒言行録の注解書の中で「昇天以後、キリスト者が神のことを語る時には、彼らはキリストについても語らなければならなくなった」と言いました。つまり「昇天」によって、キリストは神と共に、この世界を治める方となられたゆえに、キリスト者が「神」を語る際には、もはや「キリスト」を抜きに語れなくなったのです。それが「キリストの昇天」が意味することです。

 

そしてその主イエスが、再び帰ってくるという「再臨」の約束は、この苦難の多い世界を、神は見捨てず、神の愛の国になさるという約束です。この「昇天」と「再臨」の約束は、それを信じる人の日常生活に大きな影響を与えます。なぜならキリスト者は人目の前の現実がどれほど厳しく、希望のもてないものであるとしても、「昇天」された方は「またおいでになられ」、神の愛と正義は最終的にこの世界に実現する希望を信じ、他者と平和に生きることをどこまでもあきらめない、祈りと実践へと導かれていくからです。

 主イエスの「復活」と「昇天」「再臨」の信仰。それは、この危機の時代を生きるわたしたちの平和と希望の源なのです。

 

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