一人で負わなくてもいい

「わたしたちにとっての裁くこと」(2020年9月13日週報巻頭言)
礼拝において、出エジプト記を読み進めています。
エジプトの奴隷から解放され、モーセを先頭に荒野の旅を始めたイスラエルの民。彼らは毎日旅を続けていた訳ではなく、本日読まれる聖書の箇所では、モーセは一日中、民の紛争解決のために、裁きを行っていたことが記されています。
旧約聖書においては、神が「法」の源泉であり、したがって「裁き」は神に属しています。なので、モーセは民を裁く際、神の前に立ち、神に問うのです。しかしモーセ一人ではその働きを負いきれないので、民の中から「神を畏れる」人々が選ばれ、モーセと共に民を裁くことになった出来事が、本日読まれる聖書の箇所です。
さて旧約聖書においては、肯定的に語られた「裁く」ことが、なぜか新約聖書になると、例えばイエスさまの口から「人を裁くな。あなた方も裁かれないようにするためである」(マタイ7章)と語られ、否定的なイメージを持つようになりましたが、イエスさまが「裁き」を問題にしているのは、当時の裁く立場の人々が「自分の裁く裁き・・自分の量る秤」で裁きを曲げていたことにあったのです。ですから弱い者が強い者によって虐げられていても、一切裁いてはならないという話ではありません。聖書は一貫して、神は公正に裁くと主張します。その神の裁きの証こそがイエス・キリストの十字架であり、神はこの世の罪を、十字架において裁くことで、この世を赦し、救われたのです。その意味で「神の正しい裁き」こそ、世界と私たちの救いであり希望です。
ですから今や「神を畏れる人」とは、十字架に示された、神の裁きと赦しを受け入れ、感謝と謙遜に生きる人といえます。そのように神を畏れて生きる人に、パウロはこう勧めました。「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い」なさい。その昔、モーセと「神を畏れる人々」が、争いの絶えない民を、神に聴きながら裁いた出来事は、今、キリストの言葉に聞き、キリストの言葉によって互いに教え、諭し合い、共に生きる教会の姿となったのです。

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