「名もなき生涯」(2020年3月22日週報巻頭言 牧師 藤井秀一)

 

先日、「名もなき生涯」(テレンス・マリック監督)という映画を観ました。

第二次世界大戦時、ヒトラーへの忠誠を拒絶し、ナチスに加担するより自らの信念信仰の殉じた、実在するオーストリアの農夫の話しです。

彼の名はフランツ。山と谷に囲まれた美しい村で、妻のフランチスカと三人の娘と暮らしていました。戦火が激化し、徴兵された彼は、軍においてヒトラーへの忠誠をかたくなに拒みます。それゆえに収監され、拷問を受ける日々のなか、裁判をまつフランツを、妻のフランチスカは手紙で励まし続けます。しかし実は彼女自身も、村で裏切り者の妻として、罵られ、だれも農作業を手伝ってくれず、子どもたちもいじめられるなど、ひどい仕打ちを受けているのです。

あまりに美しい農村の風景が、それゆえになおのこと、人間の醜い罪の姿を、浮き彫りにしていきます。「ハイルヒトラー」と、ただ口先だけでもヒトラーへの忠誠を誓えば、この苦しみから解放されるのかもしれません。しかし彼にはどうしてもそれはできない。「あなた一人がそうやって抵抗して、世界が変わるとでも思っているのか?」と軍の司令官が詰問したとき、彼はこのようなことを言いました。「自分が絶対に正しいと思っているわけではないのです。人間誰しも過ちを犯します。しかし自分が過ちだと認めていることはしたくないのです。」・・・彼は死刑を宣告され、死んでいきます。

映画の最後は、ジョージ・エリオットの言葉が映し出されます。

「歴史に残らないような行為が世の中の善を作っていく。名もなき生涯を送り、今は訪れる人もない墓にて眠る人々のお陰で、物事がさほど悪くならないのだ」

さて主イエスは誰か?と、探す兵士たちの前に、「わたしである」と恐れず告げるその迫力に、兵士は地に倒れました。このお方は世の権力によって死刑になりますが、復活し、今も「名もなき生涯」を生きる一人一人のなかで、生きているのです。

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