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キリスト教入門
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新約聖書と旧約聖書について、神様と人との「契約」という面から、短く牧師が解説しています。
ご覧ください
A pastor briefly explains the Old Testament and the New Testament from the perspective of the 'covenant' between God and humanity. Please take a look -
人は必ず死のときを迎えるのに、
なぜか葬儀について知ることも考えることもしないものです。
その時になって慌てないように
「キリスト教葬儀について」わかりやすくビデオで解説しました。 -
いつかは誰もが「愛する人との死の別れ」を経験します。
その辛い悲しみを経験した方の体験を通して
ご覧になる方の助けになればと思って作られた短いビデオです
どうぞご覧ください。 -
病気や障害の意味について、あらためて考えてみました。
先天性の脳性麻痺の方の体験談を取り上げて、
いきる幸せについて考えたビデオです。
是非ご覧ください! -
年を重ね、高齢になると、体も心も弱くなり、
心が沈みがちになります。
でも、すこし違った見方をすると高齢も恵みになります。
そんな「命の尊さと高齢の恵み」についてお話した短いビデオです。
是非ご覧ください。 -
Aさん「賛美に感動したとき」(30代前半・女性)
主のみ名を賛美します。賛美歌の証ということで「きみは愛されるため生まれた」という賛美歌について証します。
私は大学一年の時、韓国人教会でこの賛美歌を聞きました。教会へ行ったきっかけはちょっとした文化交流のつもりだったのですが、この曲を聞いた時、涙が止まらなくなり驚きました。
私は小さい頃から教会へ通っていて小学生くらいの時にイエスさまを信じたのですが、高校生の時に「そのままでいい、なんていうのは努力できなくなるもとだし、キリスト教の教えに従っても損をするばかりでそんなのは嫌だ」と思い信仰を捨てました。そして、猛勉強して希望の大学へ入り、全てが順調でこれからも順調に行くと思っていました。
そんな時、この賛美歌を聞いて、「そのままで愛されている」ということがこんなに胸に刺さることが衝撃的でした。周りの人から見ても多分ひくくらい、しばらく泣きっぱなしでした。(半年くらい?)
けれど、自分でも気づかない心の内の痛みを神さまは分かっていてくださり、招いて愛して下さったのだと思っています。そして、神さまの愛から離れてはやっていけないのだということが分かりました。「きみの生涯は愛で満ちている」「きみは愛されるため生まれた 今もその愛受けている」という歌詞は、それまで追い詰められなくては生きていけないと思っていた私にとって、私も幸せに生きて行っていいのだという喜びを感じさせてくれるものでした。
それから色々な大変なこともありましたが、神さまの愛を今受け取っていることを信じ、毎日の生活を送っていきたいと思います。 -
Fさん「こころに流れる礼拝」(40代前半・男性)
私は昨年の11月から、花小金井キリスト教会の礼拝に出席するようになりました、Fと申します。礼拝と言っても実際には、夕礼拝に出席することがメインではありますが、その経緯について申しますと、私は仕事柄施設保安警備の仕事をしている為、曜日に関係なく24時間交代の勤務で施設に常駐することがあり、なかなか日曜日の礼拝に出席できない生活が続いていました。
しかし、教会によっては朝の礼拝だけでなく、夕礼拝も行っている教会を西武新宿線沿線で探していた中、たまたまネットで花小金井キリスト教会のホームページを見つけ、しかもネット配信されている礼拝の模様を動画を通して、閲覧できた事から興味を抱き、仕事の都合上も踏まえてほぼ毎週の夕礼拝に出席する流れに至りました。
礼拝に出席して2週間ほど経った時に、自身がギターを弾く事を藤井先生に話したところ、「是非とも一緒に賛美しましょう。」と奏楽の奉仕に招いて下さり、またそのお陰で過去これまでは聖歌や讃美歌といった古典的な賛美に慣れ親しんでいましたが、新しい現代的な曲調の賛美を知るきっかけにもなり、歌い、礼拝の中で奏楽させていただく事で、賛美に対する気持ちがこれまで以上に新鮮になり、礼拝を終えてから帰宅する車の中でも、その日の礼拝で覚えた賛美を繰り返し口ずさむほど、心の内側で流れるものを感じています。それは勿論賛美でもあり、学び得た御言葉からの供給でもあり、総合的に言えば何よりも恵みであると実感致します。
花小金井キリスト教会での礼拝をきっかけに、礼拝に出席している時だけでなく、日常生活の中でも賛美を口ずさみ、また仕事へ向かう電車の中で礼拝動画を振り返って観たりと、そんな日常が教会に居ない普段の生活にもあることで、賛美と礼拝が生活の中に溶け込み、心に流れとなって教会に於いても日常生活於いても信仰が保たれている恵みに感謝し、何よりもまた花小金井キリスト教会へと導いて下さった主に、今はただただ感謝しています。 -
W.Kさん「人間関係に悩んだとき」(20代前半・男性)
私がこの教会に来てから6年が経ちますが、改めて自分自身を振り返って見ると教会の奉仕に取り組む事が多くなってきていると感じています。
例えば、毎週朝の主日礼拝では礼拝が始まる前に、プロジェクターを使って今日読まれる聖書箇所を提示したり、初めて教会に来る方でも「主の祈り」が読めるように文字の大きさを調整したり、また夕礼拝では司会の担当の他に、夕礼拝の場所作りやプログラムの作成、夕礼拝に歌う賛美歌の選曲を行うなど教会のいろんな奉仕に関わる機会が多いです。
その一方で、教会の生活を送るにあたって、私は一つ課題にしていることがあります。
それは教会員や初めて教会に来られる方々と会話する機会を増やしていきながら、交わりを深めていくことです。
私は中学の頃から誰かに伝えることがとても苦手だったので、教会ではユースのメンバーが多かったこともあり、年配の方々と会話をする機会がありませんでした。むしろ自分の言った言葉や態度が誰か傷つけたり、嫌われる原因を作ってしまうのではないかと過剰な自意識を高校時代の初めは持っていたんだと思います。
しかし大学生活を送るにあたって、進路について少しずつ考えるようになり、同時に社会人になるにあたって誰かと会話する機会を増やしていこうと、教会学校ではユースのクラスから成人クラスに移って聖書の学びを増やしたり、昼食の時間は男性グループの方で食事をしながら会話する機会を増やしていったり、夕礼拝では若者達と共に選曲した賛美歌を演奏していったりと、教会員の方々との交わりを深めています。
まだまだ自分の中では素直に会話をしていく姿勢は少ないですが、それでも教会員の方々や初めて教会に来る方々との交わりや聖書の交わりを深めていきながら、教会生活を送っていきたいと思っています。
最後に私の好きな聖書の言葉を読みます。
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
ヨハネによる福音書16:33
2019/11/08 -
H.Nさん「病のとき」(80代前半・女性)
私は七月に頸椎性脊髄省・頸椎後縦靭帯骨化症に対する脊柱管拡大手術と腰部背中管狭窄症に対する脊椎固定術を二回に分けてM病院で受けた。
七年間以上腰痛に悩まされ、痛み止めの薬を服用してきたが、今年の六月頃から足と腰の激痛で歩けない状態になった。
神経的痛みは四六時中続き、夜も二時間ごとに目が覚めて熟睡できなかった。
この状態のままだと耐え難い痛みと不眠でストレスがたまり、正常な神経状態でいられなくなるのではないかという不安に襲われるようになり、市内のかかりつけの先生を家族同伴で訪れて、手術する方向で相談した。
先生も同意し、医師や設備、そして看護体制の整っているM病院を紹介してくださった。外来で色々な検査をした上で七月十日に頸椎を手術し、二回目の脊髄と腰椎の手術を七月二十九日にうけた。
いよいよ1回目の手術、緊張して手術室に降りて行くと、入口にステンドグラス風の光の窓があり、確かアメイジンググレイスの曲が流れていて素敵な所へ行くような感じがしたのを覚えている。
執刀医が「これから手術を始めます。」と言われたので「よろしくお願いします。」と応答した。
「これから麻酔薬が入ります。」と言われ、私は主の祈りを唱え始めて「天にましま・・・・・」までは覚えているが、続きは何も記憶していなかった。
気付いた時は、GICU(集中治療室)で担当の看護師さんに見守られていた。点滴や管や測定器に囲まれて、身動き一つできず、一人では何もできない状態だった。
その夜は一睡もできず、傷の痛みとのどの渇きを看護師さんへ、ひたすら訴えていた。
次の日の昼から一般病室に移り、三日目からリハビリが始まった。あんなに痛かった足が痛くないと実感した時は、俄には信じられず、何度も何度も動かしてみた。また前のように痛くなるのではないかと疑ってみたが、全然痛くなく、痛みから解放されていることに新鮮な驚きと感謝の気持ちでいっぱいになった。
入院中は梅雨が長びき雨の日や曇りの日が多かった。
六階の病室から外を眺めても、どんよりとした重そうな雲がたれこめ閉塞感を覚える日が続いていた。ある日、一日だけ雲間からの夕陽に照らされた雲が見られた。
私は今まで見たこともない空の情景にすっかり心を奪われた。雲間をぬって降りて来て、地球に一番近い雲につかまって地上を見ている天使たちがいた。
創世記の天地創造の世界へ強く誘われるような心象風景だった。こんなに素敵な雲を見させてくださったのは、神さまの慰めだった。
教会に行けなくなった期間が長くなり、週報に「入院中」と報告されていたので、心配してくださる方やおたよりをいただいた方、お祈りいただいた方々に感謝感激。藤井牧師と数人の方々が月報や主日礼拝のメッセージを届け、祈ってくださったので、たいへん励まされた。
後追いではあるが、七月の信仰生活を考える月間に、私自身の信仰をふり返り、残された生命ある日々を幼な子のようになって、神様に従っていけるようになりたいと思った。
そして気にとめている御言葉は
第二コリント1:4~「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」
優秀な執刀医と愛を実践している看護師さん達をはじめ家族・友人たちの多くの方々に支えられた日々だった。
現在は、週一回の訪問リハビリと早朝のウォーキングを一時間弱続けている。 -
S.Yさん「洗礼式」(40代前半・男性)
わたしは元々、キリスト教とは全く縁の無い仏教の家庭で育ちました。仏教の家庭と言っても特別信仰心があった訳では無く、新年の初詣も、適当に近くの神社へ行き、おみくじを引いて一喜一憂する年に一度のイベント程度にしか考えていませんでした。
そんな信仰とは全く縁の無かった私が大学卒業後、就職のために上京したのですが、そこでクリスチャンの妻と出会いました。妻は外国人なのですが、日本語がとても上手ですぐに打ち解けられました。真っ直ぐな性格と優しい人柄に惹かれ、結婚を決意しました。
結婚式は妻の実家の教会で行いました。結婚後も妻の実家を訪れた際は家族みんなで礼拝に行ったり、食事の前にお祈りをしたりしました。仏教家庭で育った私にはとても新鮮でした。異国の言葉なので意味は全く分かりませんでしたが、キリスト教を肌身で感じる生活を積み重ねるようになりました。
そうこうしている時、妻から「家の近くの教会に行きたい」という相談を受けたため調べてみると、ここ花小金井キリスト教会がある事を知りました。
妻との結婚生活でキリスト教を身近には感じていたものの、クリスチャンではないので、見知らぬ教会に行く事は少し勇気が必要でしたが、歩いて行ける距離ですし、何より妻と一緒ならと思い、行ってみる事にしました。
宗教に対しては何となく敷居の高いイメージを持っていたのですが、初めて訪れた私達を教会の皆さんは、まるで昔からの知り合いや家族のように暖かく出迎えて下さり、良い意味で裏切られた第一印象でした。
礼拝堂に入ってからも、そのたたずまいは美しく、居心地はとても良く、なぜか自然と心が落ち着きました。
また藤井牧師のメッセージも抵抗無く、自然と心に響いてきました。とても充実した気持ちで礼拝を終える事ができ、自然と「また来たいな」という気持ちになりました。
その日から主日礼拝に通い始めましたが、来る度に心が強くなり、気持ちが穏やかになり、不思議と満たされた気分になりました。
信仰に全く興味のなかった私が、クリスチャンの妻と出会って結婚した事も、妻の相談がきっかけで花小金井キリスト教会に通い始め、幸せな教会生活を送れている事も、昔の私では全く想像出来なかった事であり、それが現実となっている事を考えると、イエス様の導き以外には到底説明がつきません。イエス様の存在に気付けた事を深く感謝したいと思います。
イエス様の存在に気付かなかった今までは、人生は自分の力で切り開いていくものだと思っていましたから、何かで落ち込んだり、悩んだり、重要な判断を迫られたりした時、知人や家族に相談はするのですが、最終的には1人で処理するしかなく、それゆえに辛さや虚しさや寂しさを感じる事もありました。しかし今は、イエス様が側にいて下さっている事に気付き信仰していますので、そんな孤独な思いをする事は無いと思います。自分中心だった私の罪は、イエス様の十字架によって許され、わたしは救われていることを信じます。
これからの人生において楽しい事ばかりではありません。当然様々な困難もあるかと思いますが、辛い時も悲しい時も、全ては意味あるイエス様の導きと信じて、どんな時もイエス様への感謝の心を忘れずに生きていこうと思います。その決心の意味でも、バプテスマを受けようと思いました。宜しくお願い致します。
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