「断食するもしないも」(2019年9月8日週報巻頭言 牧師 藤井秀一)

 最近の健康志向の流れの中で「プチ断食」をする人が増えているようで、著名な芸能人にも「一日一食」を標榜している人が結構います(タモリ、ビートたけし、福山雅治など)。
 
ただ、健康法に関する考え方は様々ですから、「断食」するもしないも人それぞれ。人がやっているからといって、「断食」を強要される話ではありません。
 
 
 さて、もともと「断食」は、宗教的な動機から行われてきたものでした。旧約聖書においては、悲嘆、特に懺悔の表現として行われています(ネヘミヤ9:1等)。
 
しかしやがて「断食」が単なる形式的なものに堕してしまったとき、旧約の預言者は警告を発しました。
 
「見よ、お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし、神に逆らって、こぶしをふるう。お前たちが今しているような断食によっては、お前たちの声が天で聞かれることはない」(イザヤ58:4)
 
さて新約聖書の時代には、熱心なファリサイ派の人が、週に2回の断食をおこなっていたことが読み取れます(ルカ18:12)。主イエスも荒野で40日間「断食」しました。
 
神に向かう「断食」を主イエスは否定されませんが、人からの称賛を求める「断食行為」は批判しています。
 
「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする」(マタイ6:16)
 
 
一方、主イエスもバプテスマのヨハネの弟子から「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜあなたの弟子たちは断食しないのか」と追及されたことがあります(マタイ9:14)。
 
いわば「断食行為」の強要です。
 
熱心な人々にとって「断食行為」は、罪深い世界から分離し、清く生きる者としての証でした。
 
しかし主イエスも弟子たちも、そのような、人に見せる意味での「断食」はしなかったのです。
 
むしろ自分の清さを誇る人々によって「けがれた人」と差別されていた「徴税人」「罪人」と共に、食事を楽しむことを選ばれました。
 
「福音」の喜びと自由に生きる姿です。
 
健康的にも宗教的にも「断食」には意味があるでしょう。「断食祈祷」を大切にする教会もあります。
 
ただ強要はなしです。
 
「断食するもしないも」自由でいいのです。
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