十字架は、主イエスが人間の救いのために、その罪を負われた身代わりの死と言われます。
しかし忘れてはならないことは、主イエスはある日突然、わたしたちの罪の身代わりになろうとして、天から十字架についたまま下ってこられたのではない、ということです。
そうではなく、マリアとヨセフの子として育ち、出会う一人ひとりを愛し、共にあろうとなさったその生き方の末に十字架は立っています。
ゆえに十字架に至る受難の歩みにおいて注目すべきなのは、その肉体的な苦しみや悲惨な死に方にではなく、人と共にあろうとして、どうしても十字架を担うに至らざるを得なかった、主イエスの生き方にこそあります。
人の罪のための身代わりの死。十字架。それは罪を肩代わりしたゆえの死というよりも、罪人への徹底した寄り添いのゆえに身代わりとなられた死。
そうまでして、罪人を憐れまれ、どうしても共にありたいと願われた神の愛。
それが、十字架の真意です。