「注文を間違える料理店」(2018年8月12日 週報巻頭言 牧師 藤井秀一)

 去年の6月そして9月に二日間限定で「注文をまちがえる料理店」が試験的にオープンし話題になりました。
 
「注文をまちがえる料理店」で注文を取るスタッフは、認知症の状態にある方々。
 
「このお店では、注文した料理がきちんと届くかは誰にも分かりません」というルールを受け入れたお客さんたちと共に「間違えることを受け止めて、むしろ楽しもう」という思いで一時的に開かれた料理店です。
 
 実際に、営業中に間違いは数多く起きたようです。しかし興味深かったのは、誰一人怒ったり、いら立ったりしなかったことでした。
 
注文と違う品が出て来ても「まあいいか、たいした問題じゃない」と受け止めたり、お客さん同士で間違った注文を取り替えあったり、そんな温かなフォローや笑顔がそこには溢れていました。
 
きっと「天の国」とは、このような温かな関係をいうのでしょう。一方、もしこの地上の普通のレストランで、私たちは注文を間違えられたなら「まあいいか」とはなりません。
 
怒り、イライラし、相手のミスを糾弾するでしょう。だれも自分が損をして嬉しくなどないからです。
 
 さて主イエスは、ある時弟子のペトロから「何度赦せばいいか」と聞かれたとき、「天の国」の譬えで返答されました。
 
それは、主君が家来の抱えた膨大な借金を放免する話、つまり、家来を憐れみ、主君自らが膨大な損を引き受ける話です。
 
ここから「ゆるし」とは実は「自ら損を引き受ける」事だと気づかされます。
 
しかしこの譬え話は、このゆるされた家来は、自分自身は、損を引き受けようとはしなかったという悲しい結末で終わるのです。
 
その意味で、主イエスの命という多大な犠牲により、罪赦されたことを知るキリスト者のあり方が問われる譬え話です。
 
「注文を間違える料理店」のような試みを通して気が付かされ、伝わってくる「天の国」のゆるし、あわれみと平和の関係が、この地に広げられていきますように。

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