「礼拝と自由」(2015年7月5日週報巻頭言 藤井牧師)

P1060866イスラエルの民が、エジプトで奴隷であったとき、彼らにはしたくても出来ないことがありました。礼拝です。

奴隷であった彼らには、神を礼拝する時間も場所もなかったのです。それは逆にいえば、彼らは自由であるときにこそ神を礼拝出来たということです。それは時代と民族を越え、現代の日本においてもいえることではないでしょうか。金、仕事、遊び、人など、様々な「ご主人様」がいて、神を礼拝する自由を奪うことがあります。そんな「ご主人様」に縛られ、支配され、酷使され、疲れきってしまわないためにこそ、わたしたちは主イエスを通して神を礼拝します。

毎週日曜日の礼拝。それは、単に慣習に縛られた宗教行事などではなく、むしろ私たちの自由を奪うものから解き放ち、本当の安息を与えてくださるお方との、出会いの日なのです。

「人の子(イエス・キリスト)は安息日の主である」(ルカ6:5)

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