わたしが山形の酒田で開拓伝道の働きをしていた頃、妻は小学校で講師としてパート仕事、わたしは教会関係の仲間からカンパを受けつつ、食べ盛りのこどもたち3人と生活していました。
そういう状態だったので、よく地元の人から貰い物をしました。
ある時家の玄関に30キロの米袋が置いてあったり、野菜や魚や山菜などを、近所の人々からいただいては、子どもたちと感謝していただいたものです。
そういう意味で、私たち家族は、もらい物によって生きてきたと言えます。
ですから貰い物、つまりプレゼントによって生かされる人の思いが分かります。言い換えれば、プレゼントには愛のあるものとないものがあることを、体験的に感じ取ってきました。
ある教会関係の人は、「あなたたちが、食べられなくて死んじゃまずいからね」と語りつつわたしに1万円の商品券を手渡ししました。
今思えば、その人なりの照れ隠しだったと思います。生きるためにと、わたしは黙って受け取りつつも、この人を心から信用することはできないな、と思わざるを得なかったことを思い起こします。
さてなぜこのような経験を語るのかというと、ヨハネの手紙のなかにこのような言葉があるからです。
「世の富を持ちながら、兄弟が必要なものに事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いを持って誠実に愛し合おう」(3章17節~)
こういう強い言葉を聞くと、つい「貧しい人を助けるべきだ」「口先だけではなく行動だ」など、まさにそういう「口先」で他者を批判することで、むしろ愛を壊すということが起こりやすいものです。
聖書の「隣人愛」とは、単に持てる人が、持たない人に分けてあげれば自動的に「隣人愛」を実践したといえる、単純な話でしょうか?
むしろ隣人愛だと思って行ったことさえも、自己満足や自己実現という潜んだ動機によって、相手を傷つけていく愚かさ、罪深さを抱えた、どこまでいっても不完全で不誠実な「愛」しか、人は持ちえないのではないでしょうか?
ゆえに「誠実に愛し合あう」とは、自分ではどうにもできない罪を神がゆるし救ったあの十字架の愛からしか始まらず、
この愛にとどまり、互いにゆるし受け入れ合い、共に生きたいと祈り行うところから生まれる実践こそが、その愛なのだと思うのです。