今日の礼拝で読まれるみ言葉に「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」(ルカ22:42)という主イエスの言葉があります。主イエスのいう「この杯」とはなんでしょう。旧約聖書には杯について「主の手から憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した都よ。」(イザヤ51:17)とか、「わたしの怒りの杯を、飲まなくてもよい者すら飲まされるのに、お前が罰を受けずに済むだろうか」(エレミヤ49:12)という記述があります。どちらも「杯」を受けるべき苦しみとイメージさせる記述です。主イエスが「この杯をわたしから取りのけてください。」と祈る「この杯」とは、ご自分が十字架の上で受ける受難指して言われているのでしょう。
しかし一方で、「杯」について旧約聖書にはこういう記述もあります。「わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。」(詩編23:5) 「救いの杯を上げて主の御名を呼び」(詩編116:13)。これらは神が与えてくださる喜びと救いを「杯」にイメージしています。ヘンリ・ナウエンは言います。「今や問題となるのは、救いの杯をどのように飲むかです。自分に与えられた杯をゆっくりと飲まなければなりません。一口一口味わいながら、すべてを飲み干すまで。人生を全うして生きるとは、杯が空になるまで飲み干すということです。神がそれを永遠の命で満たしてくださると信じつつ」と。