「それでも なお共に」(2016年1月17日週報巻頭言 藤井牧師)

主イエスはわたしたちの罪のために身代わりになって十字架につかれた犠牲である、と言われます。しかし、わたしたちの身近な感覚からすこし遠い「身代わり」「犠牲」という言葉ではない言い方で、十字架を言い表すことはできないでしょうか。

わたしたちは誰となら、共にいられるでしょうか。好きな人ならもちろん、役に立つ人なら共にいようとするものです。

しかし、敵意を抱く人、自分を傷つける人、裏切るような人と、共にはいません。

「それでも なお共に」いるのなら、それは自己犠牲というよりも、むしろその人の弱さや罪さえも抱きかかえようとしているからでしょう。

十字架、復活。それは、神が罪深い人間と「それでも なお共にある」ことを示された、神の救いの出来事でした。それは「犠牲」というよりむしろ、共にあろうとする「抱擁」です。ならば、「日々、自分の十字架を背負いなさい」と言われる主イエスの言葉も、自己犠牲を強いる厳しい言葉ではなく、むしろ、あの人この人と「それでも なお共にある」ようにと招く、愛の語りかけなのではないでしょうか。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」ルカ9章23節

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