「信仰の交わり」ということについて、藤木牧師の断想をご紹介します。
「同じような生き方をする人が、集まって同士的な交わりを作り、それが固いものであればあるほど排他的になるのは、自然な成行きですが、このことを断じて許してはならない交わりがあります。信仰の交わりです。信仰においては区別をもたらすような一切の基準は手放され、神ご自身が基準になりたもうのですから、信仰が、信じるものと信じないものとを区別する基準になるなら、それは誤りです。信仰の交わりは、同じ信仰において結束することではなく、あらゆる排他性を破っていく点において、志を同じくすることなのです」(『神の風景』65頁)
主イエスの時代、ファリサイ派の人々は、律法を守る熱心さを誇り、異教徒や自分たちと同じレベルで生きられないユダヤの同朋を「地の民」と蔑み、排他的な交わりを作っていました。キリスト教会の歴史においても、異教徒を排斥するばかりではなく、教会のなかにおいても、自分たちのレベルに達しない人々を切り捨てて平気な、ファリサイ派的なあり方に陥ってしまうことも、しばしばあったのです。
さて、主イエスを信じて集まってきた人々は、徴税人、遊女、重い皮膚病の人、罪人と蔑まれていた人たちでした。「信仰の交わり」とは、自分と似た人で群れる「居心地の良い」交わりではなく、あらゆる排他性を打ち破り、どんな人とでも出会い、友となり、つながった主イエスに従うことにおいて、志を同じくする人々の交わりなのです。