ユダヤの人にとって系図は大切なものでした。マタイの福音書がその最初にイエス・キリストの系図を書き記しているのは、あきらかにユダヤ人や、ユダヤ人からクリスチャンになった人々を意識してのことでしょう。
ダビデやアブラハムまでさかのぼる系図を福音書の冒頭に記したマタイの心はなんだったのでしょう。マタイは、ユダヤ人たちに、主イエスの血統を誇らしげに示し、イエスがキリストであることを証しようとしたのでしょうか。
しかし系図の詳細を見ていくと、そうではないことがわかります。
「アブラハム」、「イサク」、そして「ヤコブ」の次に名前がでてくるのは、「ヤコブ」の長男の「ルベン」でも、エジプトで王さまの次の位について活躍した「ヨセフ」でもなく、四男の「ユダ」でした。
そして「ユダはタマルによってペレツとゼラを」とさらっと読み飛ばしてしまいがち記述の背景には、この「ユダ」が二人の息子を亡くし、妻も亡くしたさびしさから、娼婦を装う息子の嫁「タマル」との間に、「ペレツ」と「ゼラ」をもうけたという、人の弱さ、罪の姿が隠されているのです。
そして6節後半には「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とあります。ここに至っては、「ウリヤ」の妻と姦淫の罪を犯した「ダビデ」の罪を、ことさら強調するかのようにして、マタイは主イエスにつながる系図を書き記しているのです。
この系図は、ですから栄光の系図ではありません。むしろ人の罪の悲しみと痛みに満ちた傷だらけの系図です。
主イエスは、この人の罪と悲しみをすべて引き受け、救うお方として、この系図のもとにお生まれになった。
そうマタイは告げるのです。