「天のまなざし」(2017年3月26日週報巻頭言 牧師 藤井秀一)

日本には、昔から天に生かされているという意識がありました。

それは、「天命」「天職」「天才」「子どもは天からの授かりもの」「お天道様がみている」などの言い方が、日本語の中にあることからもわかります。

西郷隆盛は「敬天愛人(けいてんあいじん)」という言葉を好みました。天を敬うことは人を愛すること。まさに聖書の教えに通じます。天を意識すること。それは、人の上に立つ立場の人ほど大切にすべきことです。

しかし今、国会において「いった」「いわない」という言葉のやり取りを聞くとき、今、この天を意識する意識、「お天道様がみている」という感覚が失われていることを憂います。

さて主イエスの弟子であったペトロは、主イエスが捕えられ連れて行かれた大祭司の中庭に入り込み、そこにいた人々に「お前もあのイエスの仲間だ」と問われます。その時彼は「わたしは知らない」と3度も言ってしまいます。これが国会なら、完全な偽証罪です。

しかし、そのペトロを主イエスは「振り向いてみつめた」と、ルカの福音書は記します。これは後にペトロがそう証言したと私は思うのです。ペトロにとってここで主のまなざしで見つめられた経験が、やがて彼を立ち直らせ、偽らずに自分の過ちを福音書に書き残させた。そのペトロの主イエスのまなざしに対する思いを、私は感じるからです。

ペトロが、主に見つめられたと書き残させ伝えようとしたその主のまなざし。それはその後自分を救い、生かしつづけた、天からの愛と赦しのまなざしであったのだと。

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