ナチスに抵抗したドイツの若き神学者ボンヘッファー。彼が1934年にデンマークのファネーで行った「平和と安全保障」に関する講演のなかに、こういう言葉があります。
「いかにして平和はなるのか。平和の保証という目的のために、各方面で平和的な再軍備をすることによってであるか。違う。その理由の一つは、これらすべてを通して、平和と安全とが混同され、取り違えられているからだ。安全の道を通って<平和>に至る道は存在しない。なぜなら、平和はあえてなされなければならないことであり、それは一つの偉大な冒険であるからだ。それは決して安全保障の道ではない。平和は安全保障の反対である。安全を求めるということは、『相手に対する不信感』をもっているということである。そしてこの不信感が、ふたたび戦争を引き起こすのである」
自分の「安全」を求める心の根底に他者への不信感がある、と告げる彼の言葉に心探られます。
「平和」。それは自分たちの身の安全の確保のことではなく、
すべての人々は、神に愛された尊い存在ゆえに、信じあい愛し合う「関係」そのものであるのです。
「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。
また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。」(コロサイの信徒への手紙3:14-15)