エフェソの手紙の中で、使徒パウロは「わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していた」(エフェソ2:3)と語ります。
彼自身もキリストに出会うまで、肉の欲望の赴くままに生活していたというのです。もちろん以前のパウロが、みだらな欲望におぼれる人間だったということではないでしょう。
むしろ逆に、彼は厳格なユダヤ教のパリサイ派に属し、善い行いについては誰にも負けなかったと言っています。それゆえに、律法と神殿を軽んじるクリスチャンに対し、神への奉仕と信じて彼は迫害と暴力を加えたのです。罪ゆえに、神との関係が途絶えていたのに、神への奉仕と信じて善い業を行い、暴力さえ振るってしまったパウロ。彼はそんな以前の自分を振り返り「肉や心の欲するままに行動していた」といいます。
そのような「肉や心の欲するまま」に行動する人間を、神はそのような行いによらないで、一方的な神の恵みにより救ってくださいました。
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」(エフェソ2:8-9)
「肉や心の欲するまま」に行動するなら、人はその自分の行動を誇り、他者を見下げるでしょう。まさにかつてのパウロがそうだったように。しかし、復活のキリストに出会い、神の恵みと愛を知らされたパウロは、そのキリストを知る素晴らしさゆえに、過去の自分が行ってきたこと、功績など「塵あくた」(ピリピ3:8)といいました。
キリストの十字架と復活に示された神の愛を知る人は、神に向かって「アバ父」「天のおとうさま」と心から親しく呼ぶことができる、愛と信頼の繋がりに活かされます。その時に神に造られた人間は、神が前もって準備してくださっている善い業、つまり神と人への奉仕へと自然に歩み出していくのでしょう。
「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」(2:10)