「献げる人の豊かさ」(2018年7月15日 週報巻頭言  牧師 藤井秀一)

あらためて西日本の豪雨の被害の大きさに、驚かされています。今この日本のなかで傷つき痛むかの地に、具体的な愛の手が届きますように。

今日のみ言葉は、パウロが困窮するエルサレム教会への献金をコリント教会に勧める箇所です。コリントの隣、マケドニア州の諸教会はすでにエルサレム教会への献金を集めていることをパウロはこう告げます。「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。

わたしは証しますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりに私たちに願い出たのでした。」

「慈善の業」と訳されている言葉は、ほかの訳では「恵みの業」と訳されています。

マケドニアの諸教会では、神の恵みを受けたその喜びが、たとえ貧しさや試練のなかでさえ、持てるものを惜しみなく分かち合わせる「恵みの業」として現れたのでした。彼らは、主の御心に従い、まず主に献げ、そしてパウロにエルサレム教会への献金として委ねたようです。

神への感謝の献金が、同時にエルサレムの教会の必要の為に使われることになったのです。

神を愛することと人を愛することは、切り離せません。神への献金は、具体的には人を愛するために用いられていきます。人を愛するために教会は神の愛を伝え、礼拝をささげる共同体へと人々を招き、礼拝からこの地に神の平和が広げられていくために、遣わされます。そのためにわたしたちは献金を献げています。献げられた献金は、具体的にそのことの為に使われます。今なら、礼拝に来た人が熱中症にならないように、クーラーを使う電気代も献金です。そもそも礼拝の為に教会堂が建っていることも、牧師が教会にいることも、神さまへの感謝の献金が、人を愛する業として、具体的に用いられているわけです。

さて「死海」は塩分を含んだ水が流れ込んでも、流れ出す川がないので、塩分濃度が上がり生き物の住めない「死の海」となりました。本当の豊かな命とは、自分の中にため込む生き方にではなく、受けた恵みを、人へと流して分かち合う生き方の中にこそあるはずです。

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