旧約聖書には登場しないのに、福音書からいきなりあらわれるユダヤ教の一派に「ファリサイ派」があります。旧約聖書と新約聖書の間の時代、BC2世紀頃からユダヤの学者階級から起こり、律法の研究と厳格な実践をしていた人々と言われます。
使徒パウロ自身もかつて熱心なファリサイ派であったと語っています。パウロの手紙からわかることは、ファリサイ派とはユダヤ人の伝統の厳格な解釈者であり、自分たちの解釈の「枠組み」から外れた人々には、相手がユダヤ人であっても、時に暴力に訴えたほどの熱心な人々だったということです。
(ユダヤ人からクリスチャンになった人々をパウロは祭司長から許可を得て、暴力的に迫害しました)。
それは異邦人にユダヤが支配されるなかで、非ユダヤ的な生活習慣が入ってきたことに対する「宗教的」な反発と、
またユダヤの伝統に立ち返ることで、独立した神権政治をイスラエルに再び回復させることを願う「政治的」な振る舞いとしての熱心さであったと言われます。
あえて誤解を恐れずにいえば、彼らは「ユダヤの国」を愛する熱心な右翼なのです。
しかし、その国を愛する熱心さゆえに、同じユダヤ人でさえ、律法をまもらなければ、「罪人」とさげすむ彼らに対し、主イエスは厳しく批判なさったのでした。
さて、国を愛し、国を成り立たせている伝統や原理に立ち戻ろうとしたファリサイ派の人々。
この姿を日本に当てはめてみれば、日本国を愛し、国を成り立たせる伝統として、皇室を仰ぐあり方にも似ているように思われます。
それはかつて同じ日本人であろうと、この伝統から外れる振る舞いをした人を「非国民」とさげすんだ、戦前の姿からも、思いあたります。
さて主イエスはファリサイ派のニコデモに語りかけます。「ユダヤの国」という「枠組み」を超えた、「神の国」に入るために、新しく生まれるのだと。(ヨハネ3章)