先週は礼拝の中で子ども祝福式をしました。
実はその日は「父の日」でしたが、わたしたちの教会では、数年前から「母の日」「父の日」を祝うことをやめました。
行事を少なくして負担を減らすことが主な理由でしたが、同時に、現代の多様な家族の在り方への配慮もあったように思います。
さて旧約聖書では神をあまり「父」とは呼びません。
それは古代中東の異教の多くが、自分たちの神を「父」と呼び、人間はその子孫であるとしていたからだと言われます。
一方、新約聖書では積極的に神を「父」ととらえます。
イエスさまは常に「父なる神」について語られ、弟子たちにも神にむかって「天におられるわたしたちの父よ」と呼ぶように教えられました。
この神に対する「父」という聖書の表現は、古代中東の父系社会の反映でも、もちろん現代の父親をモデルにした表現でもありません。
聖書には、神を男性として描いている個所はありません。
ですから神を「父」と呼ぶにあたっては、あらゆる人間的な父親像をイメージすることは避ける必要があります。
神は男性でも女性でもなく、天地を創造した超越者であり、聖なるお方です。
その「畏れるべき方」に向かって、イエスさまは「天におられるわたしたちの父よ」と呼ぶ祈りを教えてくださったのです。
「天の父」に愛されている神の子として祈る。
これはなんという幸いなことでしょう。