今、私たちは主イエスの受難を覚えるレントの時期を過ごしています。
今日の礼拝で読まれる箇所は、権力者たちに捕らえられた主イエスに向かって、民衆が「十字架につけよ」と叫ぶ箇所です。
人の残酷な側面に向き合わされる、心の痛む場面です。できるなら立ち止まらないで、さっと読み過ごしたい箇所かもしれません。
しかしこの民衆が、自分の期待通りではなかったイエスに向かって「十字架につけよ」と叫ぶ姿は、私たちが自分の思い通りに動かないあの人この人を批判し、悪くいうのとそれほど変わらない姿として、まっすぐ向き合うべき箇所でしょう。
そして大切なことは、主イエスは「十字架につけよ」と叫ぶ側にではなく、叫ばれる側に立っておられることです。
捨てる側ではなく捨てられる側に、傷つける側ではなく傷つけられる側に、常に主イエスは立たれます。
そのイエスの傷によって、人が癒やされ、イエスの死によって、人に永遠の命がもたらされ、イエスが見捨てられることによって、互いに赦しあい愛し合う、新しいコミュニティーが生まれたのです。
主イエスは神がこの地に遣わされた救い主、傷ついた癒し人。
その主イエスに従う人の立つ位置は、「十字架につけよ」と叫ぶ側ではなく、叫ばれる側であり、その傷、悲しみが人々を癒し、互いを繋ぐ宝となることを知る、
そんな立ち位置なのです。