花小金井キリスト教会への転入を希望し、信仰告白をさせて頂きます。
私は1947年8月生まれで、来月で66歳になります。
私の育った環境は、両親と5歳年上の兄の4人家族で、父は晩年バプテスマを授かりましたが、母は恵泉バプテスト教会が組織される以前より宣教師であったドージャー先生宅で礼拝を守り、恵泉バプテスト教会が出来ると熱心に通っていました。そんな母とまた近所には叔父、叔母、従兄弟などがおり、これら親族も恵泉教会にて異なる時期に、それぞれバプテスマを授かり、クリスチャンに囲まれて育ちました。そのため、兄も私も教会への出入りは幼児期より当たり前の生活習慣でした。
私がバプテスマを授かったのは1962年11月、中学三年15歳のときで恵泉教会3代目牧師であった横手元夫先生に授かりました。もう50年以上前のことです。横手先生は元神主という経歴をお持ちであり、礼拝最後の祝祷は「仰ぎ乞い願わくは…」と何か祝詞のような祈りであったと記憶しています。
バプテスマを授かりクリスチャンとしての教会生活はそれなりに楽しく、聖泉会という少年少女会に属しました。全国少年少女体大会などで、奥多摩や天城山荘で開催された修養会に参加したことも青春の良き思い出です。
しかし、高校も高学年になり、学校も大学に進学するあたりから礼拝への参加もまばらになり、教会から少しずつ離れていきました。
学校を卒業し社会人となった頃には教会の事はおろか祈ることすら忘れた生活を続けていました。その後45歳(1992年)で勤め先を退職し、C会社という広告物デザイン制作会社をはじめ、2010年にこの会社を後進に譲り退職しました。
その間1994年に父を見送り、1999年に兄を見送り、2005年に母を見送りました。父は召される1年ほど前にバプテスマを授かり、クリスチャンとなりました。母はよく冗談めかして私のことを「破れキリシタン」と罵り、父のこともまた「天国泥棒」と罵っていました。母から観れば教会に行こうとしない息子と死の直前に悔い改めた父、いずれも罵って当たり前の存在であったのだと思います。
母は生前しきりと私に教会に行くようにと勧めましたが、私は「そのうちね」といって母の「行こうね攻撃」をかわしていました。
そんな私も2005年母が召され、死後彼女の思いを汲み取ることが出来るようになりました。亡くなった母を思い出すたびに、「破れキリシタン」といって教会へ行くことを勧める彼女の思いに心を巡らし、恵泉教会の現在会員に母の死後2年目の2007年に復帰しました。
以前より60歳になったらC会社を引退し、「もう少し空気の良い場所で暮らしたい」と考えていましたが、娘がまだ高校生であったため学校に通える範囲ということで転居先を探していたところ、それまで住んでいた中目黒の家を買いたいという方が現れ、もっけの幸いとばかりに家を売りました。なぜそうなったかは解りませんが、新座市(駅で言えば ひばりヶ丘になります)に2010年2月、家を購入しました。引っ越した当座はこのような縁もゆかりもない土地に住むことになったのかは謎でしたが、住めば都で緑も多く(緑しかない)セカンドライフにはうってつけの地でありました。
引越しが済み、落ち着いたと思った矢先、右の肺に癌があることが判明し、私は川越にある埼玉医科大学総合医療センターの呼吸器外科医を親族の医者から紹介され、診察をお願いし、病状の説明を受ける中で、この先生には誠があると感じ、治療をお願いすることに致しました。
その結果、年単位で余命を考えることは難しいと言われる小細胞がんを胸に抱きながら、主に守られ今日まで3年間生きながらえてきました。その間30数回の入院を繰り返し、現在もまだ治療中ですが、このように礼拝に出席出来るようになりました。
しかし、長期にわたる抗癌剤の使用により体力が低下し、中目黒の恵泉教会まで行って礼拝を守ることが困難になってきました。そんな私にも神様はちゃんと近くの花小金井教会へと導いてくださいました。
話は前後しますが、病院のベットでの私の祈りは「主よこの病気を治してください」「苦しみを取り除いてください」ではなく、もっと切実な祈りで「主よ共にいてください」という祈りでありました。破れキリシタンである私のために主イエスは豊かに聖霊を下してくださり、共にいて導き、守り、沢山の恵みをお与えくださいました。涙をこぼしながら、主に感謝しました。
私はこのような経験の中から、イエスキリストが私たちの罪を贖うため、十字架上で死を迎え、3日後に蘇られた。そして40日間弟子とともにおられ、その後天に昇られ神の右に座し、いまもいける神として働いておられるというキリスト教の教義を皆様と同じく信じるものですが、入院中に祈った「共にいてください」という祈りによって、イエスキリストをもっと身近な神として捉えるようになりました。十字架上でのイエス様の死は、贖罪のためであったという事は勿論ですが、それだけではなく、共にいてくださる身近な神となって復活されたという意味もあったのではないかと思うようになりました。イエスキリストの死と復活を身勝手に自分なりの解釈に置き換える事は慎むべきですが、いま自分の気持ちを素直に告白しています。その様に思えてなりません。
主の導きによって今日も健康を支えられ、花小金井キリスト教会の礼拝に参加出来ました事を心から感謝しています。
2013年7月21日