「すべての国の人の祈りの家」(週報巻頭言) 藤井 秀一
私たちは現在、レント(受難節)の期間を過ごしています。今日の礼拝で取り上げられるマルコ福音書11章12節から26節には、イエス様がいちじくの木を呪い、神殿で商人たちを追い出す出来事が記されています。これらの行為は一見理解しづらいものですが、深い象徴的意味を持っています。イエス様の怒りは、当時の形式的で空虚な宗教指導者たちと、宗教的な差別に対して向けられたものでした。これは、特にエレミヤを含む旧約聖書の預言者たちが「神殿」の形式的な礼拝に警告を発していたことを反映しています。
現代においても、国や宗教の対立により血が流され続ける中、イエス様の行動は深く響きます。「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」と神殿で宣言されたイエス様の言葉は、神殿がもはや単なる石とモルタルの建物に限定されず、キリストの十字架と復活により、私たち一人ひとりが神の神殿とされたのだと教える、使徒パウロの言葉と響きあっていきます。
「私は救われているが、あの人たちは救われていない」という宗教的エリート意識や、「私たちの国民は優れているが、あの国の人々は劣っている」という民族優越主義を乗り越え、平和への道を切り開くために、イエス様がいわれた「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」という言葉を、このレントにおいて、心に刻みつつ歩みたいと思います。