「互いに仕える交わり」 藤井秀一 私たちは皆、それぞれ異なる人生の歩みを抱えて生きています。出身地も価値観も異なるはずなのに、イエス・キリストに招かれるとき、不思議にも「共に生きる」喜びを見出すようになります。 ヨハネによる福音書13章に記されたイエスが弟子たちの足を洗った物語は、この本質を表現しているように思えます。足を洗うという行為は、一見すると単なる「謙遜」の表れのように見えますが、実際にはそれ以上の深い意味、すなわち「あなたとわたしは神の愛によって結ばれている」という宣言のような意味を持っています。イエスは、弟子たちの弱さも汚れも全て受け入れながら、深い愛を注がれました。私たちが互いに仕え合うということは、まさにその神の愛に立ち返る道筋なのです。 しかし、「仕える」とは、ただ相手の言うことに従うということではありません。むしろ、自分自身が神に赦され、清められた者として、互いが本当に必要としている助けに気づき、それを差し出すことではないでしょうか。それは大きな犠牲を伴う「自己犠牲」というよりも、神に愛された喜びを、たとえ小さなことであっても分かち合い、日々実践し続けることなのかもしれません。誰かの些細な手助けが、自分にとって大きな安心となるように、私たちの小さな行為もまた、誰かの心を潤す力となり得るのです。 教会堂がバリアフリー化したことや、送迎や訪問を継続する姿は、この「互いに仕える」という理念の具体的な実践例といえるでしょう。そこには「相手の弱さも、私の弱さも、共に神の愛に委ねられている」という深い安心感が存在します。足を洗われた者として、私たちもまた互いの足を洗い合い、異なるはずの歩みの中で、なお一つとされていく――それこそが、イエスが望んでおられる「互いに仕える交わり」の真の姿なのだと考えます。