学校にとって危機管理はとても重要なことで、校長や教頭には、危機管理の能力が問われます。台風や地震、竜巻などの自然災害。不審者対策。苦情対応。施設や設備の管理。児童生徒の健康管理。個人情報の管理。教職員の管理。何か事故が発生すると、対策は十分にとっていたのか、と責任が問われるわけです。
危機管理とは、生活や組織が脅かされるようなことに備えることを指すのですが、実は、自然災害以外、学校の危機と言われるものは、ほとんど人が作り出したものです。不審者、苦情、施設・設備、健康管理、個人情報などすべてです。私たちは、自分たちが危機を作り出し、それに振り回されていると言えるのかもしれません。また、私たちは便利さや快適さと引き換えに、危機を作り出し不安材料を増やしているのかもしれません。
だからと言って、今の社会の仕組みをすべて無しにすることなどは到底できません。
先日、うちのマンションのインターホンがモニター式になりました。マンションの入り口に来た人の顔をカメラで写し、自宅のモニターでその人を見ながら入り口のロックを外す仕組みになったのです。これは便利で安心です。このように、便利さや豊かさを手に入れた私たちは、そう簡単に後戻りなどできません。危険も多く、不安も多く、複雑な社会となってしまっていますが、何とかよりよい未来になるよう、私たちは様々な危機に備え、知恵を出し合い、声をあげて、改善していくしかないのだろうと思います。
私は校長として学校の危機管理を任され、日々そのことに心を砕いているので、危機管理意識の薄い聖書の言葉に戸惑いを覚えることがあります。それが、今日のテキストです。
ルカ9章3節「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。」
なんとも危機管理意識のない旅立たせ方だと思いませんか。
もちろん、宣教活動に赴く者の心構えとしては、十分理解できます。また、宣教に赴く弟子たちには、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能をお授けになったとありますから、何もないといっても、特別な力が与えられていたのも事実です。
無防備な旅に戸惑いを覚えつつも、危機管理なんて意識せず、何も心配しなくていいと言われているようです。
ところが、この記事は、ルカ22章36節でひっくり返されます。
「しかし今は、財布のある者は、それを持っていきなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。」
いったいどういうことなのでしょうか。もちろん先ほどの聖書の箇所とは状況が違います。前の方は宣教活動に出かけるとき、後の方は十字架の出来事の直前なのですから。
私には、人生の岐路なのだろうと思える時が何回かありました。進学先を決めるとき、毎週通う教会を決めるとき、就職するとき、結婚するときなどです。岐路に立たされたときには聖書の言葉を求め、祈り、祈ってもらい、わからないなりに、主に委ねていくだけでした。そうこうするうちに方向性が定まり、徐々に先が見えてくる。そういうことでした。
だから、岐路では自分に頼ることをせず、主に委ね、何も持たずに出ていくことを主は求められたのではないかと思ったのです。そんな時に主が準備してくださっているもの、それは友です。
ルカ9章4節「どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。だれも、あなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへのあかしとして足についた埃を払い落としなさい。」
自分にできない準備を主がしてくださっている。主が道を示してくださり、主が協力者を
くださるということなのだと思います。
とすると、必要だと思うものをたとえ自分が持っていなかったとしても、神様が用意してくださるのだから心配いらない。神様は、友を、協力者を与えてくださる。そして、その協力者を通して必要なものが満たされていく。だから、思い煩うな、主の示す道を進みなさいということなのでしょう。
私たちは、大胆に踏み出す信仰を持たなければならないのだと思います。
主が押し出してくださるのであれば、用意すべきものは、主が整えてくださる。また、必要なものを示してくださる。協力者が与えられ、整えられていく。だから何も思い煩う必要がない。すべてを整えてくださる主に感謝します。