「赤ちゃんが泣いたなら」 (2019年6月16日 週報巻頭言 牧師 藤井秀一)

今日は礼拝の中で「子ども祝福式」があります。もともとは150年ほど前に、アメリカのメソジスト教会が、6月の第2週目の主の日を「子どもの日」と定め、子どもたちに花を持たせて、施設や警察などの訪問を行ったことから始まったもののようです。「花の日」とも言われます。

さて、かつてわたしは毎週200人近くの人々で礼拝する教会で働いたあと、数人で礼拝を捧げる伝道所の礼拝で牧師をさせていただきました。そこで経験したことを振り返って思うのは、小さな子どもたちと一緒に礼拝することの喜びと、むつかしさです。

最初の教会は、二階席まであるよく響く会堂がありましたが、当時母子室がなく、椅子は長椅子で途中退席が困難なので、赤ちゃんを連れた親子は、すいている二階席に座り、赤ちゃんがぐずり始めたら、礼拝堂から退出していました。わたしはメッセージの途中で退出していく親子の姿をただ見守るだけでした。

 

一方、小さな伝道所で行っていた数人の礼拝では、メッセージをしていて赤ちゃんがぐずり始めたら「あれ、おなかがすいたの?おしめかなぁ?」とか、赤ちゃんとお母さんに話しかけながら、早めにお話を終えることもありました。

 

状況が違うので、比べる話ではありませんけれども、ただイエス様だったら、そんなときどうするのかなと、今日のみ言葉から思ったのでした。

「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。

              神の国はこのような者たちのものである」(ルカ18:16)

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