あとは任せて

「眺望(ちょうぼう)の喜びに至る旅」
(2020年10月18日 週報巻頭言 藤井秀一)
「モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた」(申命記34:1)
主日礼拝では、8月から出エジプト記の御言葉に聴き続けてきましたが、今日読まれる申命記34章に記されるモーセの死をもって、出エジプトの出来事から学ぶ歩みは、一区切りとなります。
エジプトで奴隷とされていたイスラエルの民を、エジプトから救い出し、約束の地カナンまで導くリーダーとして、立てられた預言者モーセ。
彼を先頭にイスラエルの民が歩んだ40年の荒れ野の旅の物語は、「出エジプト記」「民数記」「申命記」に分散して記されます。その長い旅の最後の締めくくりが、今日読まれる申命記34章、モーセの死の出来事です。
「旅」と「移動」の違いは、目的地までのプロセスをどのように捉えるかにあります。単なる「移動」は、目的地につくことが目的なので、到着は早ければ早いほど良く、途中のプロセスに意味はありません。
一方「旅」においては、目的地に向かうプロセスすべてが「旅」であり、そのプロセスを経た末に「目的地」に到着するからこそ味う「喜び」もまた「旅」そのものです。
主は、エジプトから救い出したイスラエルの民を、近道ではなく、長い荒れ野の旅へと導かれました。預言者モーセは、約束の地を目指す「旅」そのものにその生涯を費やし、約束の地の手前、ネボ山のピスガの山頂において、その地をしっかりと自分の目で眺望(ちょうぼう)して、地上の生涯を終えるのです。
主と共に生きるわたしたちも、ただ神の国に「移動」するのを待っているわけではなく、今日も主と共に「旅」をしています。それはいつの日か、主と共に長い「旅」をしてきたからこそ味わい知る、「眺望」の喜びに至る「旅」なのです。

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