「神の言葉として」(6月14日 週報巻頭言より)
「言葉は本来賛成するも反対するも自由なものなのですから、賛成を強いるようであるならそれはもはや言葉ではないのですから、言葉に関して言えば、賛成するか反対するかはあまりたいしたことではないのです。
大切なことは聞き流さないこと、そしてその言葉を通して相手と対話を始めること。そういう意味では、神の言葉と信じるなら聖書も、全面的に認めねばならぬものではなく、疑ったり反発したりしながらも読み続ければ、それでよいのです。そういう自由な対話の継続こそ、聖書が読む者に求めている神との対話でしょう」
藤木正三
(「福音はとどいていますか」工藤信夫、藤木正三より)
6月1日、トランプ大統領が、ホワイトハウスを徒歩で出ると広場を挟んだセント・ジョーンズ教会へ向かい、聖書を片手に教会前で報道陣にポーズを取った行為に、キリスト教会から批判が相次ぎました。
ワシントン教区を束ねるマリアン・ブッディー司教は、「傷ついた悲嘆の国に対する大統領の扇動的行動を決して支持しない。私たちは平和的な抗議という神聖な行いを通じ、犠牲者に正義を求める人々の側に立つ」
イエズス会のジェームズ・マーティン牧師も、国民に対して軍を出すと脅しながら聖書を振りかざす行為が「イエスの教えに反する」と批判。「聖書は小道具ではない。宗教は政治的手段ではなく、神はおもちゃではない」と断じました。
さて「聖書」は人間が人間を抑圧するための道具ではなく、わたしたちを愛しておられる神との出会いと対話の書です。
「聖書」そのものが、神と出会い対話した様々な人々が、手紙や福音書のような様々な形式で書き記したものの集合体です。
一方「ペトロの福音書」などのように、権威ある使徒の名前を記しながらも、「聖書」には入らなかった文書がいくつもあります。
「神の言葉」として「聖書」に加えられた文書、そうならなかった文書を分けたのは、使徒の権威などではなく、長い間それらの文書と「対話」してきたキリスト者たちのなかで、ある文書は「神の言葉」として大切に残され、最終的に聖書正典としてまとめられたのです。
つまり「聖書」とは、ある日天から降ってきたので「神の言葉」なのではなく、語られた言葉との対話において、聖霊によって、聞く人のなかで「神の言葉」として受け入れられていくものなのです。
「あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです」(1テサロニケ2:13)
https://youtu.be/-3wKXPOZSg0