ヨハネによる福音書委10章7節~21節
「イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」 この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。 多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」 ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」
今、朗読された御言葉は、ある方は水曜日のお祈り会において、共に分かち合い、またある方は、今朝の教会学校において、共に耳を傾け、そしてある方はあ、その両方に参加されて、これで3回目ですという方も、この礼拝で、最初にこの箇所に触れるという方もおられるでしょう。
学校の授業なら、一度聞いたら、知識としてはもう十分わかりましたとなりますのに、聖書の御言葉は、何度聞いても、不思議にそうはならないものです。
聖書の知識でしたら、むしろ素晴らしい聖書の解説書や神学書が、すでに沢山出版されていますから、ぜひ、キリスト教書店で、買い求めて、沢山本を読んでいただければと、願っているのですね。
礼拝のメッセージでは、解説や説明は、必要最小限にしているのです。なぜなら、本なら、読み返したり、確認することができますが、語りはどんどん前に進んでいくからですね。
黒板やホワイトボードに、ポイントを書くということもありません。
ノートをとる、ということもしませんでしょう?
そして、同じことを聞いているはずなのに、一人一人受け止め方が違う、ということが起こるのも、聖書の御言葉の不思議です。
たまに「わたしの生活を見通されているかと思いました」とか「今必要な言葉でした」ということを、礼拝のあとに、言ってくださる方がいます。
聖書の言葉は、それを聞いた一人一人の中で、違った受け取り方がなされ、その人の中で、神の御言葉との対話が起こり、
その人にとって、その教会にとって、必要な、慰めや勇気や知恵、選ぶべき道や、決断へと、導かれるという、出来事が引き起こされる、
知識を超えて、今、このわたしたちを、導いてくださる、羊飼いである主のみ言葉なのです。
そのような、羊を導く、良い羊飼いである、主イエスの御言葉と、聖霊によって出会う、生きた出会いの現場。それがわたしたちの礼拝です。
主イエスのみ言葉は、それを聞いた人々のなかに、なにか出来事を引き起していきます。
それは、先ほど朗読されたヨハネの福音書の10章において、主イエスの言葉を聞いた、ユダヤ人のなかに引き起こされたことでもありました。
19節にはこうあります。
「この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。
多くのユダヤ人は言った。
「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか」
ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか」と。
盲人の目を癒やされた後の出来事なので、このように語られていくのですが、
いずれにしろ、主イエスが語られた言葉は、それを聴いた人々の心のなかに、強烈な思いを生み出したのです。
ある人は、主イエスの言葉を聞いて、
「これは悪霊に取りつかれた、気が変になった人の言葉だ」という、怒りの感情が生まれ、
またほかのある人は「いや、悪霊に取りつかれた人は、こんなことを言えるわけがない」と、イエスさまの言葉を受け入れている。
それぞれに、同じ言葉を聞いても、同じ出来事を見ていても、その一人一人の心の思いは、同じにはならなかったのだ、ということが、ここに表されています。
イエスさまが語る言葉。イエスさまが、ご自分について宣言する言葉は、決して万人受けする、耳障りのよい言葉ではなかったのです。
政治家がするような、大衆を扇動したり、人々が求めていることを、語るような、演説でもありませんでした。
むしろ、語ったことで、人々が離れていってしまうということも、ありました。
たとえば、主イエスはこのような宣言をなさいました。
「わたしがいのちのパンである」
わたしは、「天から下ってきたパンである」と言われたことがあります。
そのとき、この言葉を聞いた、ユダヤ人たちは、こう反応しました。
この男は、大工のヨセフの息子じゃないか。その父も母もしっている。
なのに、わたしは「天から下ってきたパン」とは、なんだ?
そうつぶやいたと、書いてあります。
また、イエスさまは「わたしは世の光である」と、宣言なさったこともありました。
そのときには、ファリサイ派の人々が文句を言いました。
「あなたは自分で自分のことを言っているだけじゃないか」と。
つまり、あなたのいっていることは偽りだと、文句を言いました。
別に、イエスさまは、人々が嫌がる話をしているわけではないのです。
ユダヤ教の指導者たちを、強く批判したり、悪口をいっているのではなく、
ただ、イエスさまは、「わたしは、こういう者なのです」と、語っているだけなのです。
その、同じ言葉を聞いた人々の中で、ある人はイエスさまの言葉に反発し、ある人は受け入れていきます。
イエスさまの、自己証言。わたしはこういうものなのだという宣言が、
それを信じる人と、信じない人へと、分けていったのだと、ヨハネの福音書は告げるのです。
特に、当時のユダヤ社会の中心にいた、指導者たちの多くが、イエスさまの言葉に、強く反発しました。
ただ、すべての指導者たちが反発したわけではありません。ニコデモという議員は、イエスさまに教えを求めてやってきています。
このニコデモは、ユダヤ教の指導者たちの間で、むしろイエスさまを擁護する発言さえしています。
ですから、主イエスの言葉は、立場を越えて、分かる人にはわかる。分からない人にはわからないと言うことなのです。
今日の聖書の個所も、結論をみると、見事に二つに分かれています。
「あの人は、悪霊に取りつかれて、気が狂っている」と批判し、反対に、ある人は「悪霊に取りつかれている人が、あんなことはいえない」と、主イエスの言葉を受け入れています。
このようなことは、どの時代においても、主イエスの言葉。その宣言が語られ、聞かれるとき、人々のなかに起こる反応なのでしょう。
逆をいえば、イエスさまは、だれからも反発されないような、耳障りのいい言葉、宣言を語っているのではないということなのです。
今日の聖書の個所の、冒頭、10章7節には、こうありました。
7節
イエスはまた言われた。
「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。」
さらに、11節では
「わたしはよい羊飼いである」という、御自分に対する「宣言」がなされています。
わたしは「羊の門」、また、わたしは「よい羊飼い」であるという「宣言」
一見、何のことはない宣言のように聞こえます。
そもそも、わたしたち日本人には、「羊」自体、あまりなじみがないので、ピンと来ません。
しかし、パレスチナに生きる人々。特にイスラエルの民にとって「羊」とは、非常に身近な動物であっただけではなく、
「羊の群れ」といえば、神の民のことがイメージされ、その羊たちを守り導く「羊飼い」といえば、主なる神のことがイメージされていたのです。
主イエスの時代から約1000年前の、イスラエルの王、ダビデが歌ったといわれる、詩編23編は、そのイメージをよく表しています。
「主は(私の)羊飼い」 「わたしには何も欠けることがない」
「主はわたしを、青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、
魂を生き返らせてくださる」
かつて、自分自身が「羊」を守る「羊飼い」だったダビデは、今、神を信じるイスラエルの王として、主なる神こそが、わたしたちを守り導く「羊飼い」ですと、歌ったのでした。
そのほかにも、実に沢山の聖書の箇所に、「羊」が神の民。「羊飼い」が、主なる神とイメージされた表現があるのです。
そういう意味で、イエスさまがご自分のことを、その「良い羊飼い」であると宣言した、この言葉が、、
当時のユダヤの人々に、どれほど大きな驚きであったことかと思います。
「羊」は弱い動物です。
長い間、人間に飼われてきた「羊」は、人間に守られ、養われなければ、生きられない動物です。野生の「羊」は、存在しないのです。
その「羊」とは、まさに神に守られ、導かれてきた、私たちイスラエルの民なのだと、
神だけを「羊飼い」として言い表してきたイスラエルの民。
かつて、イスラエルの王の中には、神の御心から離れ、イスラエルの民を苦しめ、間違った方向に導いていった、王や指導者が現れると、
預言者たちは、そのような王や指導者たちに対し、「偽りの羊飼い」「自分自身を養う牧者たちよ」と、糾弾したのです。
そして預言者エレミヤやエゼキエルは、やがて本当の「羊飼い」が「牧者」が、主によってたてられるのだと、預言した。
イエスさまは、当然その意味で、ここでご自分のことを「よい羊飼い」と言われているのです。
この宣言を聞いたユダヤの人々は、どれほど驚いたことでしょうか。
また、「わたしは羊の門」であるという宣言は、わたしこそが「羊」を守る、その囲いに入る入り口であるということでしょう。
いずれにしろ、「わたしは羊の門」、また「わたしはよい羊飼い」という宣言の重みを、感じ取りたいのです。
くどいようですが、「羊」は弱い動物です。
群れていなければ生きられず、にもかかわらず、遠くが見えないので、すぐに群れから迷い出てしまう。
その「羊」の生体は、実に人間というもの本質を、表しています。
迷いやすく、一人では生きられないわたしたち「羊」には、「よい羊飼い」が必要なのです。
そのことを思う出来事が、先週ありました。
先週の木曜日のお昼ころ、わたしは駅前のスーパーで買い物をして、教会に向かって歩いていたのです。
そして、ある大きなマンションの前を通りかかったとき、そのマンションの入り口の生け垣のところに、寝そべっているおばあさんが、おられたのです。
「おばあちゃん、大丈夫」と声をかけると、「大丈夫、大丈夫」と、笑顔でいわれます。
「でもね、この生け垣のうえに、寝そべったら、枝が痛いでしょう。」
そう話しかけても、「大丈夫。なれているから」の一点張り。具合が悪くなった訳ではなさそうなので、その点はほっとしたけれど、でも、このままほっておいていいのか?
するとマンションの中から管理人さんが出てきて、「わたしもさっき声をかけたんですよ」と言われる。
また、おばあちゃんに、どこから来たの、どうやって来たの。いろいろと訪ねてみるけれども、ちょっと要領を得ない。
いずれにしろ、ここでねそべっていたら良くないので、管理人さんに駅前の交番に連絡してもらって、その間に、おばあさんをマンションのロビーに導いて、おまわりさんが来るまで、いろいろおばあさんのお話を聞いていました。
すこし認知症が進んでおられるのかなと、いう印象でした。よく、ここまで来られたな。でもお一人では、家に帰るのは、無理じゃないかと思いました。
結局おまわりさんが対応してくださることになったのですが、おばあちゃんは、ちゃんと家に帰れたのだろうか、今、どうしているのだろうかと、このメッセージの準備をしながら、思い出すのです。
わたしたち人間は、だれも一人では生きていけない。
誰かに助けられ、誰かに守られ、誰かと共に、誰かに導かれつつ、
「羊」が強盗や狼から守られなければならないように、わたしたち人間も、守られ、助けられ、導かれることでしか、生きられない弱い存在なのだ。
人間には、悪い者をいれない「羊の門」が、牧草へと導く、「羊飼い」が、必要なのです。
主イエスは、わたしがその「羊の門」であり、わたしがその「良い羊飼い」であると言われます。
さて、今日の聖書の箇所は、イエスさまという「門」を通り、イエスさまという「よい羊飼い」に導かれるなら、生き生きとした、豊かないのちを受けることができると語ります。
なぜなら、良い羊飼いは、羊のためにいのちを捨てるからだと言うのです。
わたしは、このメッセージの準備をしながら、あらためて思ったのです。
わたしは、あの迷った羊のようだった、一人のおばあちゃんのために、死ねるだろうかと?
それは無理だと思った。ほんの少し、自分にできる関わりはできるでしょう。
しかし、残りの人生のすべてを、誰かのために、すべて捧げてしまうことは、できない。
なぜなら、私自身が、弱い「羊」であるからです。
そのような「羊」でしかないわたしたち一人一人が、だれかほかの「羊」のために、いのちを捨てるということが、いったいできるでしょうか?
ぎゃくをいえば、弱い「羊」でしかないお互いの人間同士なのに、
誰かに向かって、自分のために、いのちを捨ててくれと、願うことが、できるでしょうか?
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てる」
このような言葉を、イエスキリスト以外のだれが言うことができるでしょうか?
今日の聖書の個所で、イエスさまは、「よい羊飼い」とともに、雇われた羊飼いの話をしています。
イエスさまの時代には、羊飼いの多くは、お金持ちから雇われていた、貧しい羊飼いだったと、聞いたことがあります。
ですから「雇われている羊飼い」は悪い羊飼いなのだと、そういうことを言っておられるのではないのです。
そうではなく、「雇われた羊飼い」というものは、そもそも限界があるのです。
「羊」のためにしているけれども、その羊飼いにも、自分の生活があるのだから。
だから、100%、「羊」のためとはならず、自分の生活のために、「羊」の世話をしているのです。
ですから自分の生活、命が脅かされる事態が起こったら、にげてしまうこともあるでしょう、といわれているのです。
これは、まず、当時のユダヤ教の指導者たちに対する批判だったとは思う。
ユダヤの民のために、国を運営していながら、自分たちの生活を優先して、民を苦しめていた、国のリーダーたち、指導者たちへの批判であったでしょう。
それは、当時のことだけではなく、国と民の関係において、いつの時代にも起こることでしょう。
しかしそもそも、人間は、誰かのために尽くしていても、同時に、自分自身の生活も支えなければならない。
100%、羊のために、じぶんのいのちを差し出すことはできないと言う意味で、すべての人はこの「雇われ羊飼い」なのではないですか?
医者であれ、先生であれ、カウンセラー、宗教家、あらゆる援助の仕事であれ、
100%、その人のために尽くし、自分のためには、0%で生きているといえる人が、いるでしょうか?
そういう意味で、わたしたち人間は、どこまでいっても弱い「羊」なのであり、決してイエスさまが言われる意味での「羊飼い」にはなれないのではないでしょうか。
どれほど美しい愛に見えても、罪ある人間は、羊のためにいのちを捨てる「羊飼い」にはなれない。
いざとなれば、羊をすてて、自分を守り、自分を優先させてしまう、エゴイズムに縛られている。、
使徒パウロは、そのような自分自身のなかにあるエゴイズムを見つめて言いました。
「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです」
「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。・・・だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」
と。
さらにパウロは言います。
「わたしたちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します」と。
神は、この罪を取り除くためにこそ、イエスさまをこの世に送ってくださったのだと、パウロは悟ったのです。
イエスさまは言われます。
わたしは「よい羊飼いである。よい羊飼いは羊のためにいのちを捨てる」のだと。
「羊のためにいのちを捨てる」とは、わたしたちの罪の許しのために、そのいのちを「十字架」のうえに捧げらるという、神の子だけにしかできない、救いの出来事のことであります。
17節から、イエスはこう言われます。
17節
「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。
それゆえ、父はわたしを愛してくださる。
だれもわたしからいのちを奪い取ることはできない。
わたしは自分でそれを捨てる。
わたしはいのちを捨てることもでき、それを再び受けることもできる。
これは、わたしが父から受けた掟である」
やがて、人々がイエスさまを十字架につける時がくる。
しかし、それは、主イエスが無力なので、わがままな人間のされるがままに、十字架につけられていくのではないのだ。
そうではなく、主イエスが、ご自分から、わたしたち「羊」のために、いのちを捨てられるのだ。
イエスさまが、みずから、十字架への道を、歩んでいかれたのだと、言われているのです。
特に18節で言われている、
「いのちを捨てることもでき、それを再び受けることもできる」と、訳されている言葉は、
丁寧に訳すなら、
わたしには「いのちを捨てる「権威」があり。再び得る「権威」があると」言われているのです。
権威とは、なにものにも縛られないという自由であり、
ご自分のためということに縛られず、ただただ100%「羊」であるわたしたちのために、
ご自分のいのちのすべてを、与えてくださるのです。
たとえ、この世界の目に見える隣人愛や、やさしさも、
その心の中では、実は自分のためという、罪のエゴイズムに、汚れているとしても、、
そんな人の愛に傷つけられ、もう誰も信じられない、傷ついた「羊」のような、思いになるとしても、
このお方だけは、主イエスだけは、「羊」のために、100%の愛を、いのちを注いでくださった。
あの十字架によって示された、「よい羊飼い」の愛だけは、本物。
この地上のだれひとり、助けることなどできない、人生の最後の最後の、天に召されるその時も、
「羊」のために命を捨てた、このお方だけは、その死の影の谷において、共にいて、なお、道を導いてくださる。
わたしたちは、このイエスさまの宣言に応えて、詩編23編のように、「主は私の羊飼い」と告白し、主の言葉に従って歩みます。
もちろん、このイエスさまの宣言を、すべての人が受け入れることは、できないかもしれません。
このイエスさまの宣言を聞いたときも、ユダヤ人たちは、信じる人と信じない人に分かれてしまいました。
それでもなお、イエスさまが16節において、
16節
「わたしには、この囲いに入っていない。ほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」と言われたことに、希望を持ちます。
今はまだ、このイエスさまの言葉が、よくわからないとしても、やがてこのイエスさまの声を、聞き分ける時がくる。
そして、「羊」は一人の羊飼いに導かれて、一つの群れとなる日が来る。だれもが、主イエスを「わたしの羊飼い」と信じる日がやってくる。
その日に向かって、今週も、「良い羊飼い」の声に聴き従い、
一歩一歩、歩み続けていくのです。