主を喜び祝うことこそ力の源

「共に飲み食いできる幸い」 週報巻頭言 牧師 藤井秀一
最近の水曜「聖書の学びと祈り会」では、旧約聖書の「コヘレトの言葉」を読み進めています。先日読まれた8章には、このような言葉がありました。
「太陽の下、人間にとって/飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。それは、太陽の下、神が彼に与える人生の/日々の労苦に添えられたものなのだ。」(8章15節後半)
「太陽の下」と表現されたこの世界の、不条理に満ちた現実をまっすぐに見据えたコヘレトは、「飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない」といいます。「飲み食い」とは人生の労苦に、神が添えてくださった賜物なのだと・・・。
一方で「人はパンだけでいきるものではない・・」(マタイ4:4)と言われた主イエスの言葉や「酒に酔いしれてはいけません。それは身を持ち崩すものです」(エフェソ5:18)というパウロの言葉などから、キリスト教は「飲み食い」に否定的であると感じている方もおられるかもしれません。しかしそんなことはなく、旧約、新約聖書を貫いて、「飲み食い」は、神が与えた賜物ととらえられています。さらに一人で食べるよりも「祝宴」のように、共に「飲み食い」する現場が沢山描かれています。
主イエスは、人から「罪人」とさげすまれていた人、差別されていた人、貧しい人々と食事を共にしながら、「神の国は近づいた」と語られました。一方、当時の宗教指導者たちは、「罪人」と共に食事はできないと分離しました。そんな彼らの「飲み食い」は、きっと寂しいものだったでしょう。
今コロナによって、共に「飲み食い」することが難しくなり、あらためて共に「飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない」と告げるコヘレトの言葉が、心に深く響くのです。

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