「キリストの平和」   ローマ8:24-25  H.M.兄  2014・6・29

今私たちの国、日本では、集団的自衛権というものが問題になっています。集団的自衛権とは、集団的自衛権を行使するということは、アメリカの戦争に巻き込まれて、日本が戦争に参加するようになると言うことです。例えば、アメリカ艦隊が日本人護衛するための艦隊を派遣して、その艦隊が襲われた時、集団的自衛権が容認されていた時、日本は最低限度の武力を通してその艦隊を攻撃してきた部隊に、武力制圧することができます。これは憲法九条の交戦権の否認というところに反しています。今回の説教テーマがキリストの平和ということで、平和がどこにあるのか、それは私たちのうちに?教会のうちに?それとも日本のうちに?何をもって平和というのか、今日は聖書を通して一緒に考えていきたいと思います。

このあいだ僕の大学で講演会がありました。デンマーク牧場福祉会子羊診療所の院長の武井陽一先生という御方からこんな話をいただきました。「安全と平和は似ているが反対の概念だと思う。安全を求めるとき人は心を閉ざし自分の安全を求める。自分が被害を受けなければ周りにどれだけ被害が及んでいようと関係ない。平和を求めるとき人は心を開き、人と人との良き関係がそこに出来上がる。平和の上に安全は実現するが、安全の上には平和は実現しない。」という話です。

 

今回問題になっている集団的自衛権は、形上の安全を求めています。確かに先ほど述べたように襲われた時には、助け船が必要に感じるかもしれない。けれどもそこに目をとらわれていて、形だけの安全を求めたら、もっと大きな戦争が起きてしまう危険性があります。安全だけを求める上には、平和は存在しないのです。

 

聖書個所を再読させていただきます。ローマ信徒への手紙8章24.25節「わたしたちは、このような希望によってすくわれているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものを誰がなお望むでしょうか。私たちは、目に見えないものを望んでいるのならば、忍耐して待ち望むのです。」

ここでは二つのことについて考えたいと思います。まず「忍耐」という言葉について、忍耐とは、ただ辛いことを我慢するということではありません。 僕も忍耐することは苦手です。ある日自転車に乗っていたらお腹が急に痛くなりました。しかし近くには立ち寄れるお店もなく、家まで二十分耐えた時もあります。その時凄く辛い思いをしました。人は辛いことを我慢しようとすると必然とフラストレーションがたまってしまい、自分の感情を爆発させてしまいます。そのようなことと、ここで言っている忍耐して待ち望むことは違うように聞こえます。果たして忍耐するということには、どういう意味が含まれているのでしょうか?

そしてもう一つ、「忍耐して待ち望む」と書いてあります。この「待ち望む」という言葉に目を向けたいと思います。これは口語訳では「忍耐して熱心に待つ」と書いてあります。 何かを望むということは、その事柄について期待の姿勢を持つということであります。それについてよく考え、求め、私たちが“期待”と呼ぶある1種の緊張やそわそわした気持ちをもって、それが来るのを一心に待ち望むのです。「いつかそうなるだろう」というような思いは、当然来るものだとは思っているだけで、熱心にそれが来るのを待ち望んでいるわけではない。 「熱心に待つ」ということは、どういうこと何でしょうか?

私は小さい頃熱心待ち望んでいたものがあります。それはクリスマスの日です。皆さんも、クリスマスは楽しみな季節だったと思います。神さまとは関係なしに、プレゼント欲しさに待ち望んでいました。本当は、クリスマスはプレゼントがもらえる日だと思うのは大間違いだとわかっていたのに、私はこぞってサンタクロ-スが来るのを待っていた。一ヶ月前、二ヶ月前からもうそわそわして何も手につかなくなって、クリスマスの日を熱心に待ちのぞむ。「君はどんなプレゼントが欲しいの」とか聞かれたりするし、指折り待つことをするときもある。クリスマスイブの日には、「早く寝ないとサンタさんは来ないよ?」と諭されて、珍しく早寝を試みたりします。勿論、これは大学生の話ではなく、幼稚園くらいの子どもの話であるけれども、もうサンタクロ-スが待ちきれなくてたまらなくなる。そのように、私も幼い頃は熱心にクリスマスを待ち望んでいた。それが来るのを心から楽しみにしていたのである。自分の経験の中で、そのように何かを熱心に待ち望むような経験は確かにある。 ここの聖書でいう忍耐するとクリスマスの日に待ち望むことは、果たして同じことなのでしょうか?

私の好きな曲にシンボウ人という曲があります。この曲を気に入っている点は、二つ。一つは身体が踊りだしそうなくらい、気持ちのいいメロディーとアップテンポなところ。大学に行く時、元気がない時など、気持ちが沈んでいるときによくこの曲に励まされます。そしてもう一つは、この曲の歌詞です。全て紹介するには時間がかかりますので、一番好きな部分を紹介したいと思います。「もう無理なんて言うのなら、言えなくなるまでシンボウだ。この意味はここに来て分かるから。花咲く為のシンボウは辛抱ならぬ信望だ。この世に生まれた僕らは信望人。」とあります。シンボウシンボウ何度も出てきてこの曲は何が言いたいのかわからないように感じてしまいますが、実はここに深い意味があります。このシンボウ人という曲のタイトルは、カタカナでシンボウと書いてあります。それは後々出てくるシンボウの意味が二つあるからです。一つ目のシンボウは、辛さを抱えると書いて辛抱です。僕はまだ18年とちょっとしか生きていませんが、辛抱することはたくさんありました。辛さを抱えることはとてもしたくないことです。辛さを抱えるくらいならば、もういっそ目の前にある現実をすべて投げ出して、ハワイにでもぶらっと旅したいものです。しかしそれが出来ないからこそ人は辛さを抱える辛抱をしてしまいます。しかしこの曲では、もう一つのシンボウが大事にされています。それは信じて望むと書いて信望です。この曲のストーリーは夢を追いかける人に対して描かれていると僕は思います。夢を追いかける時に人は壁とぶつかる、そんな時、人はその壁、辛さを抱え込んでしまいます。けれどもこの曲は、辛さを抱えるのではなく、信じて待ち望むことが必要なのだと訴えかけています。

これを先ほど考えていた忍耐して待ち望むに当てはめて考えてみましょう。「忍耐」 もっと肯定的な意味があり、ただ耐えるのではなく、もっと積極的に頑張って歩み続けるというような意味があると考えられます。この「忍耐して」という言い方には、ただ辛さを抱え込むのではないとも読み取れます。

このローマ信徒への手紙は、当時の時代偽預言者たちによって信仰を揺らがされるということがあった背景の中で、ローマの信徒たちが偽預言者たちに惑わされないようにパウロが書き送ったものだと書かれています。 望んでいるものとは、今はまだ持っていないものなのだから、イエスキリストの死による救いを熱心に待ち望んでいるのならば、大変な試練がある時でも、信じて待ち望むことが必要なのだとパウロが信徒たちに言っているようにここでは感じられます。

今日本は目先に見えている形だけの平和を求めています。自らの国の安全を求めて本当の平和を捨て去ろうとしています。けれども恒久平和を本当に望むのならば、目先にある安全を求めるのではなく、恒久平和への道のりは見えないけれども、そこに希望を見出して、祈って待ち望むことが必要です。そんな中で、私たちはイエスキリストの死によって、この生命が救われたのですから、辛さを抱え込むのではなく、キリストの内にある平和を信じて待ち望むものでありたいです。

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