お金は目的ではなく手段なので、お金の使い方にその人の価値観も現れます。
おいしいものを食べたり、旅行をしたり、神様から与えられた人生を楽しむことは良いことです。ただ、もしそれが幸せを感じたくてお金を使うということならば、それは心の欠乏感をお金で穴埋めすることですし、お金が与えてくれる充足感は、すぐに過ぎ去ってしまいますから、また欠乏感を埋めようとして、次から次へとお金を浪費することにもつながるでしょう。
テモテの手紙1 6章6節以下に、このような言葉があります。
「もっとも、信心は満ちたりることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持っていくことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。」
私たちはすでに「祈り」という宝をもっています。「愛する子よ」と語りかける、神様の語りかけを祈りの中で聞くことがゆるされています。そこに与えられる心の充足感と生きる喜びは、お金では買うことのできない「命」の喜びであり、主の前における豊かさ。この宝の価値を忘れずにいたいのです。
「有り余るほど物をもっていても、人の命は財産によってどうすることもできない」
ルカによる福音書12章15節