「自分の十字架」(2016年9月18日週報巻頭言)  牧師 藤井秀一

 「自分の十字架を背負ってわたしについてきなさい」との主イエスの言葉を、わたしたちはどのように受け止めているでしょう。
 「十字架刑」はローマ時代に行われた最も残酷な刑です。犯罪人は、横木だけを背負わされて刑場に向かいました。文字通り今も「十字架を背負う」ことが求められるなら、今もクリスチャンは町中を太い横木を背負って歩かなければなりません。もちろんこれは比喩的表現であるのです。では「十字架を背負う」という表現で、主イエスは私たちになにを求めておられるのでしょう。主イエスが歩まれたように、受難の苦しみの道を歩みなさい、ということでしょうか。もしこれが「わたしの十字架を背負って」という言い方なら、主イエスが歩まれたのと同じ苦しみの道を歩むことが求められていると理解できます。しかし主イエスは「わたしの十字架」とは言わす「自分の十字架を背負って」と言われるのです。この「十字架」は、受難とは違う、「自分」に与えられている「十字架」なのです。主イエスは、天の父の御心に従い与えられた使命、天命を成し遂げるために「十字架」に向かわれました。それが「十字架」の意味ならば、「自分の十字架」とは、「自分」に神が与えた使命、天命に生きることになります。神の御心に従い「自分」の使命、天命に生きるために、主イエスの言葉に従う。それが「自分の十字架を背負ってイエスについていく」ことなのでしょう。

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