平和の王

2021年8月22日主日礼拝週報巻頭言
「原理主義とシャロームの関係」   藤井 秀一
「太宰治の「走れメロス」は教科書にも掲載される、友情と真実の美しい物語です。
しかし主人公メロスは、ある意味ではテロリストになりかけた男だったことに、お気づきでしょうか。
メロスは妹の結婚式の準備のために、遠く離れた市を訪れます。ところがそこにいる王が人々を殺害していることを知り、「あきれた王だ。生かして置けぬ」と、買い物の荷物を背負ったまま、城に入っていくのです。
警吏に捕縛され荷物が調べられると、メロスの懐から短剣が出てきて騒ぎとなります。王の前に引き出されたメロスは、「その短剣で何をするつもりだったのか」と聞かれたとき、「市を暴君の手から救うのだ」と「悪びれずに」答えるのです。その後のメロスと友との友情のストーリーは、ご存じのことでしょう。
さて、正当な話し合いの手続きを踏まず、「生かして置けぬ」と短剣をもって城に侵入する人のことを、現代社会は「テロリスト」と呼びます。しかしだれもこのメロスのことを、「正義感と友情にあつい人」と評価しても「テロリスト」とは呼ばないでしょう。
いったい「テロリスト」と「自由と平和の戦士」の共通点は何でしょうか? それは、どちらも「自分は正しいことを行っている」という強い確信をもっていることです。人を殺害するほどの暴力行為を正当化するには、「自分は正義の立場に立っている」ことへのゆるぎない確信が必要なのです。
ゆえに、どの宗教であれ、思想であれ、「原理主義」と呼ばれるものの危うさの本質は、自らを「絶対的な正義」の立場に置くことにあります。その「絶対に正しい自分たち」が何をしようと、それは常に「正義」であり、殺戮行為さえ「自由と平和のための戦い」とみなされ、なんども繰り返されてきたことは、周知の通りです。
ですから、神と人との平和。「シャローム」を求める人々のあり方とは、誰かを問うまえに、常に自分自身は、神の前に正しいのかと、祈り、自分自身を問うことのはずです。自分自身が問われた結果、「懐に隠した短剣」を手放し始めた人と人の間に、国と国の間に、主が「シャローム」を実現してくださることだけが、私たちの希望なのです。

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