私は戦時中の1943年に東京の東の外れ江戸川区に誕生いたしました。
家は宗教とは特に係わりのないごく普通の家庭でした。
教会との係わりは、子供たちがキリスト教会付属の幼稚園に入園し、その行事のお手伝いをしたことに始まりました。
その後のオランダや当時の西ドイツへの転勤に伴い、現地での家庭集会や教会へ、既にクリスチャンとなっていた妻の送り迎えが10年ほど続きました。
その後、アメリカ転勤を経て帰国後、生活の基盤が落ち着いたところで、妻が最寄りの教会に転会しました。
それが現在私と妻が所属するバプテスト連盟の市川八幡キリスト教会だったのです。
その後も私の教会との距離は変わる事がないまま、誘われれば時々礼拝に出席するだけの日が続きました。
このようにして時が流れましたが、廃屋同然の古い会堂の建て替え計画が起こり、
アメリカの南部バプテスト連盟の教会から、幾組かの退職されたご夫婦がボランテイアとして来日されて酷暑の中で会堂の建設の奉仕をして下さいました。
ところが建設中に牧師が突然に辞任をするという事態が起きました。会堂が無く、その上に無牧師の状態で礼拝を守らなければなりません。
毎主日には場所を転々としながら会員が代わる代わる宣教を担当せざるを得ませんでした。
無牧師の状態は1年半続きました。礼拝を中心とする教会の行事は何一つ欠かすことなく守られました。
当時はまだ信仰を持っていなかった私にも、もの凄い事が起こっていたのだと思うようになっておりました。
当時を知る方は、今でも無牧師の状態で礼拝を守れた事と会堂建設は神様が導いて下さった奇跡と信じております。
この出来事を通して私も神の存在を幾らか感ずるようになっていました。
加えて、このような時期に、ある詩を知りました。「砂の上の足跡」と題された詩です。カナダの女性によるもので、かなり知られているそうですから皆さまもご存知と思います。
ごく一部ですが、ご紹介いたします。夢の中で渚を歩いていた時の出来事です。
私は砂の上の足跡に目を留めた。そこには一つの足跡しかなかった。
私が人生で一番辛く悲しい時だった。
この事がいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。
『主よ。私があなたに従うと決心した時、あなたは全ての道で私と歩み、私と語り合って下さると約束されました。
それなのに、私が一番辛い時に一人分の足跡しかなかったのは何故ですか。
一番あなたを必要としていた時に一人分の足跡しかなかったのは何故ですか。
一番あなたを必要としていた時にあなたが何故私を捨てられたのか私には判りません。』
主はささやかれた。
『私の大切な子よ。私はあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや苦しみの時に、足跡が一つだったのは私があなたを背負っていたからだ。』
この詩を知り、それまで私に起こった幾つかの事を振り返えると、パウロがダマスカスへの途上で受けた衝撃とは比較にならないでしょうが、私はその時に神の存在を確信したと思います。
このようにして、私は1996年のペンテコステに市川八幡キリスト教会で、既にバプテスマを授かった息子たちに続いて受洗にいたりました。
この詩の基であろうイザヤ書46章3節から4節に
あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。
同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで白髪になるまで背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。
わたしが担い、背負い、救い出す。
とありますが、これが私の愛称聖句として与えられました。
これから、皆さまと共にこの地で礼拝を持たせて頂きたく思い、これを私の信仰告白と致します。どうか主の基に仲間に加えて下さるよう宜しくお願いいたします。
2018年3月11日 Y.T