「先に、ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ8:23後半-9:1)
この「闇の中を歩む民」は、直接的には預言者イザヤの時代の「南ユダ」のことです。
神はその昔アブラハムの子孫を祝福すると選び、子孫はやがてイスラエルと呼ばれる民となります。神に導かれたイスラエルの民は、12部族の連合体を経て、王を頂点とする統一国家となりますが、やがて王国は北イスラエルと南ユダの二つに分裂します。
この二つの王国は互いに敵対しますが、王が神を信頼し従うときに国は守られ、神への信頼を失い他国の軍事力に頼るとき、国に危機が襲うということを繰り返し、その末に先に北イスラエルがアッシリアに侵略され滅びてしまいます。「ゼブルンの地」「ナフタリの地」とは、北イスラエルの部族名であり地名です。その地がアッシリアに占領され辱められたとイザヤは告げたのです。そして隣国北イスラエルがアッシリアに滅ぼされ、次は自分たちが危ういと恐れ、闇の中を歩んでいた南ユダ。イザヤはその闇の中を歩む民は、大いなる光を見ると告げ、絶えることのない平和をもたらす王が「みどりご」として生まれることを約束します。この王は、後に南ユダをアッシリアから救うヒゼキア王と言われますが、しかしヒゼキアは南ユダをアッシリアからは救っても、後に、新興国家バビロニアに南ユダは攻め込まれて、捕囚とされてしまいます。
イザヤが告げた「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」。それはそのような一時の平和をもたらす王ではありません。絶えることのない平和、終末的な平和をもたらす「みどりご」として生まれる「平和の君」です。この「大いなる光」を、やがて世は見ることになるとイザヤは告げました。
さて「・・異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」とイザヤが告げていたとおり、主イエスはガリラヤから活動を始めました。そして生まれた教会は、イザヤが告げていた「みどりご」「平和の君」がこの方であったことに、やがて気づいていくのです。