聖書に登場する「マグダラのマリア」ほど誤解されて教会で語り継がれてきた女性はいないようです。マグダラのマリアといえば、わたし自身「かつて娼婦であった女性」と思いこんでしまった時期がありました。カトリックの作家であった遠藤周作も『聖書の中の女性たち』で、マグダラのマリアの過去を悔いた心情を巧みに描くことで、罪を赦す主イエスの愛の姿を浮かび上がらせますが、それも彼女が娼婦であったことが前提になっているのでしょう。しかし、四つの福音書が彼女について語っていることは、七つの悪霊をイエスに追い出していただいたこと、十字架上のイエスを遠くから見守り、その埋葬を見届け、復活したイエスに最初に立ち会ったことだけです。この「七つの悪霊」のことを、グレゴリウス1世が「七つの大罪」と解釈し、さらに福音書の他の箇所に出てくる「罪の女性」を、マグダラのマリアと同一視したので、彼女は「罪深い娼婦だった女性」という偏見が定着してしまいました。
つまり、主によって悪い霊を追い出していただかなければならなかったのは、実は彼女を「罪深い」と見下げて安心していた人々の方だった、ということなのです。