「使命というものは、自ら買って出て担うものではありません。それは、生かされている所で誠実であろうとする構えが、自然に見出し、やむを得ないこととして担い、そして果たしゆくものです。それは、何かをするというよりは、担わされる受け身のことであり、避けてはならないとする誠実のことです。簡単にいえば、今あるさまを誠実に引き受けて、逃げないことです。使命を生きる人には、そういう受け身の誠実さからにじみ出る一種の自然さがあります。恐らく本人は、自分のしていることを、使命などとは考えていないことでしょう」(藤木正三「神の風景」より)
今日から来週の日曜日まで、全国壮年会連合が推進する「神学校週間」です。伝道者への道に進む多くの人々は、自分の思いや願いというより、逃げたくても逃げられないという受け身のなかで、「召命」に応え神学校で学び始めます。しかし「召命」(神が使命へと召すこと)とは神学生だけではなく、神学生を祈り支えるという「召命」もあるはず。わたしたちがそれを「私の使命」などとは考えていないとしても・・