ベトナム出身の禅僧、ティック・ナット・ハンの文章に、このようなものがあります。
「あるとき私たちは、小さな難民ボートの少女がタイの海賊に強姦されたという手紙を受け取りました。
この少女はまだ12歳でした。その直後彼女は海に飛び込んで自殺してしまったのです。
はじめてこのような事件を聞くと、誰でも海賊に激怒します。ひとりでに少女の側に立ってしまいます。
しかしもっと深く見つめてみたら、この事件は違ったふうに見えてきます。
この少女の側に立つのは簡単なことです。怒りに燃えて銃を奪って海賊を殺せばおしまいです。
しかしそのようなことはできません。
私は瞑想の中で自分が海賊の村に生まれ、その海賊と同じ状況で育てられた姿を思い描いてみました。
そうすればこの私だっていとも簡単に海賊になってしまうでしょう。
シャム湾沿いの村では、毎日何百人もの子供が生まれます。
そして教育者やソーシャルワーカー政治家たちが何らかの良策を講じない限り、25年後にはこの中の多くの子供達が海賊になってしまいます。
間違いなくそうなります。
もしあなたや私が今日このような貧しい漁村に生まれたら、私たちは25年後には海賊になっているでしょう。
銃を奪って海賊を殺したら私たちは自分たちを撃ち殺すことにはならないでしょうか。
なぜなら私たちはみんな程度の差こそあれ、そのような状況に責任があるからです。」(『微笑みを生きる』)
海賊、犯罪人を見つけては、憎み、非難し叩くだけの「平和の番人」は多いが、
海賊、犯罪人、敵国を生み出さないために、地道に「平和をつくる人」は少ない。
主イエスは「平和をつくる者は幸いです」(マタイ5:9)と言われます。