日本は仇討ちという名前の復讐の文化を有してきた国です。
仇討ちは英語ではrebenge(リベンジ)ですが、adauchi(あだうち)とそのままの日本語で紹介される日本特有の文化です。
特に「赤穂浪士の討ち入り(忠臣蔵)」は有名です。今に至るまで歌舞伎や映画によって人々の感情に訴え続けています。
2013年には「半沢直樹」というテレビドラマがヒットし、「やられたらやりかえす。倍返しだ」という言葉がはやりました。日本人は復讐物語が好きなのでしょう。
ただ「倍返し」という言葉が現しているように、復讐はだんだんエスカレートしていきます。
創世記にはレメクの復讐の歌というものがあり、「・・・カインのための復讐が七倍ならば、レメクのためには、七七倍」(4:24)と言われています。復讐は、倍返しではすまないのです。
そこから旧約聖書の律法において「目には目を、歯には歯を」という戒めができたといわれます。
これはそもそも復讐を容認する戒めではなく、エスカレートする復讐の連鎖を食い止め、受けた同じ損害だけを相手に科すという戒めです。
そしてさらに主イエスは、この律法を深めて「『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしはいっておく、悪人に手向かうな、だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬もむけなさい」と語られ、その言葉の通りに生き抜かれたのでした。
さて使徒パウロは、主イエスの姿を直接見たわけではありませんが、主イエスの言葉や生き方を伝え聞いたのでしょう。ローマの教会に宛てた手紙の中で、こう勧めます。
「あなたを迫害する者のために祝福を祈りなさい」、「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」、「敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませなさい」
これはきれい事、絵空事でしょうか?
本当にひどい目に遭わされたなら、そうやすやすとその人をゆるすことなどできるのでしょうか?
確かに自分と相手の関係だけを見つめてしまえば、復讐の連鎖を断ち切ることなどできません。
しかしもし、自分と相手の間に、神がいてくださることに思いを向けることができるなら、
人の力ではどうしても起こりえなかった奇跡、ゆるしと平和が実現すると、パウロは信じて語るのです。