11月は「宣教」ということをテーマに考えています。
今日は特に「イエスは主である」と証させる、聖霊の働きについて考えます。
使徒パウロが「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(1コリント12:3)と語ったように、そもそも、約2000年も前に、遠いパレスチナで十字架につけられ死んだ一人の人が、復活し、世界の主、わたしの主となったと告白する、ということは、実に不思議な出来事であり、まさに聖霊の働きです。
主イエスはそのことを「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(ヨハネ3:3,6)とも表現します。
先日ある女性が教会を訪ねてこられました。その方は「神が何もないところから天地を造れるわけがない。知り合いはクリスチャンだったが不幸だった。教祖のイエスも地獄の苦しみを味わって死んだじゃないか。キリスト教を信じても救われない。こんな教えを広めて、責任がとれるのか」と抗議されました。
わたしが「聖書には、神は『あってあるもの』と何もないところに存在し続けていると啓示されていますし、イエスは十字架について終わりではなく、神はイエスを復活させたと、証言されています。」と申し上げると「そんなばかなことを信じているのか」と、怒りつつ帰って行かれました。
さて人間は自分が得た知識、体験をもとに、「自分の考え」を構築していきます。しかし、神はそのような、知識や体験を元に造り上げた「自分の考え」という狭い殻を超えて、自由に働かれるからこそ、天地、そして人を造られた神なのではないでしょうか?
自分の考えという殻のなかに閉じこもり、神の呼びかけに耳を閉じる罪から解放し、主イエスにおける、天地を造られた神との、愛の関係に招き入れてくださる聖霊の働き。
使徒言行録には「水によるバプテスマ」と「聖霊によるバプテスマ」という表現が出て来ます。水のバプテスマとは、目に見えない聖霊のバプテスマという実体の象徴です。「自分の考え」という小さな殻を超えさせる、聖霊による新生、バプテスマを受け、「イエスは主です」と告白するようになった人に、約2000年にわたって、教会は水によるバプテスマを授け続けてきたのです。