「神の風景」(藤木正三 著)に「自分を通過」という断想があります。
「神を信じるという人が神を信じているわけではありません。
神に生かされている人が神を信じているのです。そして、神に生かされている人は神について語らないで、神に生かされている自分を語るでしょう。信仰の問題は、神の問題でも人間の問題でもなく、自分自身の問題です。信仰をおびやかすものは従って、無神論でも科学でもなく、多忙な生活でも物質的欲望でもなく、道徳的混乱でもないのです。それは、自分を批判吟味することに時間と労力を費やすことを無駄と考えて、簡単に自分を通過してしまうことです。」(P.170)
「簡単に自分を通過してしまう」ファリサイ派の人々に、「・・外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている」(ルカ11:39)と本当の自分の姿に直面させた主イエス。それは裁いているのではなく、彼らを本当の自分へと救いだそうとしておられる、主の憐れみの言葉でありました。