2024年3月17日主日礼拝ダイジェスト

「言葉の吟味」(週報巻頭言) 藤井 秀一
現在、受難節(レント)の時期にあたり、私たちは毎週の礼拝でマルコ福音書を通じて、主イエス・キリストの十字架への道のりをたどっています。また水曜日と日曜日の朝の教会学校では、ヨハネ福音書を用いて主イエスの十字架への歩みを深く掘り下げています。今日は礼拝と教会学校とで同じ個所、ローマ総督ピラトによる主イエスへの尋問と、その後の死刑確定プロセスに焦点を当てます。
マルコもヨハネも、主イエスがユダヤ教の指導者たちに訴えられ、ピラトに尋問されるという共通の話の流れになっていますが、内容の描写には少し違いがあります。ヨハネ福音書では、主イエスとピラトの間の「対話」が詳細に描かれ、「真理とは何か」というピラトの問いかけが印象的です。これに対し、マルコ福音書では、ピラトとの対話がほとんど描かれず、主イエスが自らを弁明する場面もありません。
マルコ福音書は、主イエスのことを、旧約の預言者が預言する苦しみを背負う神の僕、メシアであることが強調されています。ゆえにユダヤの議会は「あなたはメシアなのか」と問い「わたしがそれである」と答えたイエスを、神を冒涜するものとして死刑に定め、実際に死刑の執行を行えるローマ総督ピラトに訴えました。ただピラトにとって「メシア」問題は重要ではないため、イエスはローマに反逆する「ユダヤ人の王」であると、ユダヤ議会は訴えています。
この訴えはユダヤ議会の妬みによるものであり、イエスには罪はないと理解したピラトは、過ぎ越しの祭りに際して毎年行っていた、ユダヤ人捕虜の解放の慣習を利用してイエスを解放しようと、民衆に判断を委ねます。ところが、民衆はテロリストのバラバの解放を望み、無力なイエスを拒絶したのです。ピラトも最終的に、民衆の意向に従い、イエスの処刑を許可してしまいます。
この十字架刑に至る裁判の記事において、主イエスは無言であり、話しているのは周りの人間です。そして彼らの口から出てくる言葉に真実な言葉はなく、ただ非難と偽りに満ちた言葉だけが飛び交っていることが証言されています。
この受難節。イエスの受難と十字架に至る道のりを見つめながら、私たち自身の日々の言葉を振り返り、語らなくても良かった言葉、また語るべき言葉は何だったのか吟味しつつ、主の御心を祈り求めて過ごしたいと思います。

 

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