先週、上映中の「否定と肯定」という映画を観ました。
これは実話に基づいた歴史映画です。
1994年、アメリカのジョージア州アトランタにあるエモリ―大学でユダヤ人女性の歴史学者デボラ・E・リップシュタットがホロコーストに関する講義を行なっていました。
そこに乗り込んできたホロコースト否定論者のデヴィッド・アーヴィングが、「ユダヤ人を殺せというヒトラーの命令書はない、だからヒトラーはホロコーストを命じていない」と言い放ち、証拠となる文書を見つけた者には1000ドル出すと聴衆を煽ります。
その後、自分がホロコースト否定論者と呼ばれたとして、彼女とその出版社を相手取り、名誉毀損訴訟を起こすのです。
訴えられた側に立証責任がある英国の司法制度の中でリップシュタットは”ホロコースト否定論”を崩すこととなり、彼女のために、英国人による大弁護団が組織され、アウシュビッツの現場調査に繰り出すなど、歴史の真実の追求と裁判が始まっていきます。
さてたった70数年前の出来事でさえ、しばらくすると「そんなことはなかった」という人々が現れてきます。その人たちは「本当なら、証拠をだせ」と言いい、重箱の隅をつつくようなことをいいます。リップシュタットがそのような否定論者との裁判で勝利できたのは、「彼らと同じ議論の土俵に乗らなかった」からでした。
さてルカの福音書は、マリアは聖霊によって主イエスを身ごもったと証言します。
しかし「そんなことはなかった」「本当なら証拠をみせよ」という人は時代を越えていつもいます。
しかし、これは「証拠とか議論という土俵」の上に乗ってこれを「証明」する事柄ではなく、「神にはできないことは何一つない」(ルカ1:37)と信じ、受けいれる信仰の事柄なのです。
教会は約2000年という歴史を、この信仰の上に築いてきたのです。